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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 雷怯子(一)
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否定はするが、〔あいまい〕ではない。
曹操の否定は明快だつた。痛烈な快感をすら、聞く者の耳におぼえさせる。
玄徳も、その興味につい誘ひこまれた。
さうして、当今の英雄に就(つい)て、玄徳が名をあげ、曹操が論破し、思はず話に身がいつたせゐか、いつのまにか酒席の小亭の前に来てゐた。
「こゝは風雅だらう、君」
「なるほどよい場所です」
「観梅の季節には、よくこゝで宴をひらく。野趣があつて甚だいい。けふも固い礼儀はやめて、寛(くつろ)がうではないか」
「結構です」
「途々(みち/\)、当今の英雄に就てだいぶ喋舌(しやべ)つて来たが、余にはまだ書生論を闘はした時代の書生気分が抜けてゐないのか、談論風発は甚だ好むところだ。けふはひとつ、大いに語らう」
彼は胸襟をひらいて、赤裸の自己を見せるつもりで云ふ。
いかにも自然児らしく、今なほ洛陽の一寒生らしくも見える。
だが、そのどこまでが、ほんたうの曹操か。
玄徳は、彼の調子にのつて、自分の帯紐(おびひも)をといてしまふやうな風は容易に示さない。
玄徳が、曹操の程度に自己を脱いで見せれば、それはすつかり自己の全部を露呈してしまふからとも云へよう。——玄徳は自分をつつむのに細心で周到であつた。いや臆病なほどですらある。
よく取れば、それは玄徳が人間の本性をふかく観(み)つめ、自己の短所によく慎み、あくまで他人との融和に気をつけてゐる温容とも心がけとも云へるが、悪く解すれば、容易に他人に肚をのぞかせない二重底、三重底の要心ぶかい性格の人ともいへる。
尠(すくな)くも、曹操の人間は、彼よりはずつと簡明である。時折、感情を表に現わしてみせるだけでも、ある程度の腹中は窺へる。
——が、さうかと云つて、玄徳は肚ぐろく曹操はより人がよいとも、云ひきれない。なぜならば、彼が現してみせる感情にも、快活な放言にも、書生肌な胸襟の開放にも、なか/\技巧や機智がはたらいてゐるからである。むしろそれは自分から砕けて相手を油断させる策とも見えないことはない。たゞ曹操の場合は本来の性質でするそれと、機智技巧でするそれとを、自分でも意識しないでやつてゐるところがある。だから彼自身は、決してふたつのものを、挙止言動に、いち/\つかひ分けてゐるなどとは思つてゐないかもしれない。
麗玉の酒杯(さかづき)。
美陶の瓶(ヘイ)。
そして肴は青い小梅の実。
さつき梅の実をひろつてゐた美姫の群の中で見かけたやうな美人が、幾人かこれへ来て、ふたりの酒宴に侍してゐた。
「あゝ、酔うた。梅の実で飲むと、かう酔が発しるものだらうか」
「わたくしもだいぶ過しました。近頃、かやうに快く御酒をいただいたことはありません」
「青梅(セイバイ)、酒ヲ煮(ニ)テ、英雄ヲ論ズ——。さつきから詩の初句だけできてゐるが、後ができない。君、ひとつそれに、あとの詩句をつけてみんか」
「できません、所詮」
「詩は作らんかね」
「どうも生れつき不風流にできてゐるとみえまする」
「おもしろくない男だなあ、実に君といふ人物は」
「恐縮です」
「では、飲む一方とするか。なぜ酒杯(さかづき)を下におかれるか」
「興も充分に尽しました。もはやお暇(いとま)を告げたいと存じますから」
「いかん!」
曹操は自分のさかづきを突きつけて云つた。
「まだ英雄論も語りつくしてをらんではないか。——君はさつき、袁術、袁紹のふたりを当世の英雄にあげたが、もう他には天下に人物なしと心得てをられるか。——借問(シヤモン)す! 現代は事実、そんなにも人材が貧困だらうか」
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次回 → 雷怯子(三)(2024年12月19日(木)18時配信)