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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 青梅(セイバイ)、酒ヲ煮(ニ)テ、英雄ヲ論ズ(四)
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雨やどりの間の雑談にすぎないので巧みに答へを躱(かは)されたが、曹操は、腹も立てられなかつた。
玄徳は、すこし先に歩いてゐたが、よい程な所で、彼を待(まち)迎へて、
「まだ降りさうな雲ですが」
「雨もまた趣きがあつていゝ。雨情といふことばもあるから」
「今の驟雨(シウウ)で、たいそう青梅(あをうめ)の実が落ちましたな」
「まるで、詩中の景ではないか」
曹操は、立(たち)どまつた。
玄徳も見た。
後閣に仕へる侍女(こしもと)たちが、雨やみを見て、青梅の実を拾ひあつめてゐるのである。美姫は手に手に籠をたづさへ、梅の実の数を誇りあつてゐた。
「……あ。丞相がおいでになつた。」
曹操のすがたを見ると、女院の廂のはうへ、彼女たちは、逃げ散るやうにかくれた。曹操は、詩を感じてゐるのか、或は彼女たちの若さに喜悦してゐるのだらうか、その鳳眼に笑みをたゝへて見送つてゐたが、——ふと客の玄徳に気づいて、
「可憐(いぢら)しいものですな、女といふものは。あれが生活です」
「よくあんな美しい侍女(こしもと)ばかりお集めになられましたな。さすがは、都といふものでせうか」
「はゝゝ。しかし、この梅林の梅花がいちどに開いて、芳香を放つ時は、彼女等の美は、影をひそめてしまひますよ。恨むらくは、梅花は散つてしまふ」
「美人の美も長くはありません」
「さう先を考へたら何もかも儚(はかな)くなる。予は人生の七十年、或は八十年、人寿(ニンジユ)の光陰を最大の長さに考へたい。——仏者は、短しといひ、空間の一瞬といふが」
「お気持はわります(ママ)」
「予は、仏説や君子の説には、無条件で服することが出来ん。性来の叛骨(ハンコツ)とみえる。しかし、大丈夫のゆく道は、おのづから大丈夫でなくては解し難い」
と、口をむすんで、運びだす足と共に、いつか又、前の話題にもどつて来た。
「——どうですか、君。最前も云つたことだが、一体、当今の英雄は誰か。居ないのか、居るのか、御辺の胸中にある人を、云つてみたまへ」
「その問題ですか。どうも、自分には、これといふ人も覚えてをりません。たゞ丞相の御恩顧を感じ、朝廷に仕へてはをりますが」
「御辺の考へで、英雄と云ひきれる人が見当らぬというなれば、俗聞でもいゝ、世上の俗間では、どんな事を云つてゐるか、論じ給へ」
性格でもあらうが、実に熱い。その粘りこい質問には、玄徳もかはしきれなくなつた。
で、遂に、
「聞(きゝ)及ぶところでは、淮南の袁術など、英雄といはれる方でせうか。兵事に精通し、兵糧は足り、世間ももつぱら称揚してをるやうです」
聞くと、曹操は笑つて、
「袁術か。あれはもう生きてゐる英雄ではあるまい。塚の中の白骨だ。不日、この曹操がかならず生捕つてみせる」
「では、河北の袁紹が挙げられませう。家系は四代三侯の位にのぼり、門下には有数な官吏が多く出てをります。そして今、冀州に虎踞(コキヨ)して謀士勇将は数を知らずといはれ、前途の大計は、臆測をゆるしません。まづ彼など、時代の英雄とゆるしてもいゝのではありますまいか」
「はゝゝ、さうかなあ」
曹操は、なほ笑つて、
「袁紹は、胆(きも)のうすい、決断のない、いはゆる癬疥(センカイ)の輩(ともがら)といふ人物さ。大事にあうては身を惜み、小利をみては命も軽んじるといふ質だ。そんな人間が、いかで時代の英雄たり得ようや」
誰の名をあげてみても、彼はさういふ調子で、真つ向から否定してしまふのだつた。
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次回 → 雷怯子(二)(2024年12月18日(水)18時配信)