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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 青梅、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ(三)
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「ほ……。これは宏大な梅林ですな」
曹操の案内に従つて、玄徳も遠方此方(をちこち)、逍遙しながら、嘆服の声を放つた。
「劉豫州。——君はこゝを見るのは、初めてかね」
「南苑の御門内に通つたのは、今日が初めてです」
「それなら、花の頃にも、案内すればよかつたな」
「丞相おんみづから御案内に立たれるだけでも、恐懼の極みであります」
「酒席の小亭は、まだ彼方(あなた)の梅渓(バイケイ)をめぐつて、向ふ側にある眺めのよい場所だよ」
——と、俄(にはか)に。
ばら/\つと頭上へも大地へも降り落ちて来た物がある。みな青梅(あをうめ)の実であつた。
「……オヽ!」
とたんに樹々の嫩葉(わかば)も梢(こづゑ)もびゆう/\と鳴つて、一天暗黒となつたかと思ふまに、一柱の巻雲(まきぐも)が、はるか彼方の山陰をかすめて立(たち)昇つた。
「——龍だ、龍だ」
「あれよ、龍が昇天した」
そこらを馳けてゆく召使(めしつかひ)の童子や家臣が、口々に風のなかで云つてゐた。——そして一瞬、掃いてゆくやうな白雨(ビヤクウ)が、さあつと迅(はや)い雨脚(あまあし)で翔(か)けぬけた。
「すぐ霽(や)まう」
曹操と玄徳は、樹蔭(こかげ)に雨やどりして、雨の過るのを待つてゐた。
そのあひだに、曹操は、玄徳へこんな事を話しかけた。
「君は、宇宙の道理と変化を、御存じか」
「いまだ辨(わきま)へません」
「龍といふものがよくそれを説明してゐる。龍は、時には大に、時には小に、大なるは霧を吐き、雲をおこし、江を翻し、海を捲く。——また小なれば、頭を埋(うづ)め、爪をひそめ、深淵にさゞ波さへ立てぬ。その昇るや、大宇宙を飛揚し、その潜(ひそ)むや、百年淵のそこにもゐる。——が、性の本来は、陽物だから時しも春更けて、今ごろとなれば大いにうごく。龍起れば九天といひ、人興つて志帰と時運を得れば、四海に縦横するといふ」
「実在するものでせうか」
「ありと観ればあり、無しとみれば無いかも知れん。——たとへば今」
と、天を指して
「雲の柱が、彼方の山岳をかすめて、すさまじく立昇つたかと見えた。だが、雲表の神秘、自然の迅速、誰かよく、その痕蹟をとらへて、実證できよう」
「古来、龍のはなしは、無数に聞いてゐますが、まだこれが真の龍だといふ実物は片鱗も見ませんが」
「否!」
曹操はつよく顔を振つて、
「余は見てゐる!この眼で」
「ほ。左様ですか」
「——だが、神秘の龍ではない。この地上、風雲に会つては起る幾多の人龍だ。要するに、龍は人間だといふのが余の自説だが」
「さうも云へませう」
「君もその一龍であらう」
「いかにせむ、電飛の神通力なく、把握の爪なく、隠顕自在の才もありません。まづ龍は龍でも、頭(かしら)に土の字のつく龍のはうでせうか」
「御謙遜あるな。……が御辺には、ずいぶん諸国を遍歴もされたであらう故、かならず当世の英雄は知つてをられるにちがひない。まづ当代、英雄とゆるしてよい人物は誰と誰とであらうか」
「さあ?……むづかしいお訊ねですな。われ等ごとき凡眼をもつては」
「いや、君の胸中にある者、誰でもよいから云つてみられい」
玄徳は、彼の執(しつ)〔こい〕眼ざしからのがれたくなつて
「オ。……雨もやみましたな」
と、先に木蔭を出て、空を見上げた。
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次回 → 雷怯子(らいけふし)(一)(2024年12月17日(火)18時配信)