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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 青梅、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ(二)
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「御主君は、どこへ行かれたか」
張飛、関羽は、眼のいろ変へて、留守の家臣にたづねた。
「相府へお出ましになりました」
「えつ、曹操の召(めし)でか」
「はい、曹丞相が何やら急に、お迎へを向けられたので」
聞くと、ふたりは呆然顔を見あはせて、
「しまつた……。われわれが居れば、是が非でも、お供に従(つ)いて行かれたものを」
思ひあたる事がある。日ごろ沈着な関羽さへ、気もそゞろに、玄徳の身を案じた。
「迎へには、誰と誰が来たか」
「曹丞の腹心、許褚、張遼のおふたりが、車をもつて参りました」
「いよいよ怪しい」
「兄貴、考へてゐる場合ではない。後からでも構ふまい。もし門を通さぬとあれば、ぶち壊して押通るまでだ」
「おゝ、急げ」
ふたりは宙を飛んで、許都の大路を、丞相府のはうへ駈けて行つた。
× ×
それより数時前に。
玄徳は曹操からふいの迎へをうけて、心には、何事かと、危(あやぶ)まれたが、使の許褚、張遼にたづねてみても、
「御用のほどは何事か、われ等には、辨(わきま)へ知るよし候はず」
と、膠(にべ)もない返辞。
といつて、断るすべもなく、彼は心中、薄氷を踏むやうな思ひを抱きながら、相府の門をくぐつた。
導かれたところは、庁ではなく曹操の第宅(テイタク)につづく南苑の閣だつた。
「やあ、しばらく」
曹操は待つてゐた。
痩軀(ソウク)長面(ながおも)、いつも鳳眼きらりと耀(かゞや)いて、近ごろの曹操は、威容気品ふたつながら相貌に備はつて来た風が見える。
「つい、こゝ二月ほど、御無沙汰にすぎました。いつもお健(すこや)かで」
玄徳もさりげなく会釈すると、曹操は、その面をじろじろ見ながら、
「健康といへば、たいさう君は陽に焦(や)けたな。聞けば近頃は、菜園に出て、百姓ばかりしてゐるといふが、百姓仕事といふのは、そんな楽しみなものかね」
「実に楽しいものです」
心のうちで、玄徳は、まづこの分ならと幾らか胸をなでゝゐた。
「——丞相の政令がよく行わたつてゐますから、世は無事です。故に、閑をわすれる為、後園で畑を耕していますが、費(つひえ)もかゝらず、体にもよく、晩飯はおいしくたべられます」
「なるほど、金は費(かゝ)るまいな。君は欲無しかと思うたら、蓄財の趣味はあるとみえる」
「これは、痛烈なお戯れを」
玄徳は〔わざ〕と、辱(はじ)らふやうに俯(うつ)向(む)いた。
「いや、冗談々々。気にかけ給ふな。——実はけふ、君を迎へたのは、この相府の梅園に、梅の実の結んだのを見て、ふと先年、張繡征伐に出向いた行軍の途中を思ひ起したのだ。炎暑に渇ききつて、水もなく苦しみ弱る兵等に向ひ、この先へ行けば、小梅の熟したる梅林があるぞ。そこまで急げや——と詐(いつは)つて進むほどに、兵は皆、口中に唾(つば)のわくを覚え、遂に、渇をわすれて長途の夏を行軍したことがある」
曹操は、そのはなしが、自慢らしい。さう語つて、
「——で、急に君と、その小梅の実を煮て賞翫(シヤウグワン)しながら、一酌くみ交したいものと思ひ出したわけなんだ。まあ来たまへ。梅林を逍遙(セウエウ)しながら、設けの宴席へ、余が案内するから」
曹操は、先に立つて、はや広い梅園の道をあるいてゐた。
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次回 → 青梅、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ(四)(2024年12月16日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。