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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 青梅、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ(一)
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ぼくつ、ぼくつ、と鍬を打つ。土のにほひが面(おもて)にせまる。
玄徳は、野良着の肱(ひぢ)で、額の汗をこすつた。
「…………」
黙然と、鍬を杖に、初夏の陽を仰いでゐる。一息して、鍬をすてると、彼は糞土の桶を担つて、いま掘かへした菜根の土へ、こやしを施してゐた。
「わが君!冗談ではありませんぞ。この時勢に、そんな小人の業(わざ)を学んで何(ど)うするのですつ。馬鹿馬鹿しい」
うしろで張飛の大声がした。
玄徳はふり向いて、
「おゝ、何用か」
ことばだけは、左将軍劉備らしい。それだけに、張飛はなほ馬鹿げた気がしてならない。が、由来彼は辯舌の士でなかつた。乱暴な口ならいくらもたゝくが、主君に忠諫などは、得手でない限りである。
「関羽、云つてくれ」
そつと、突つつくと、
「なんだ、貴様がおれの手をひツぱつて来たくせに」
「おれは、後で云ふから」
「家兄。——けふはさう呼ぶことをおゆるし下さい」
関羽は、畑にひざまづいた。
「なんぢや改まつて」
「われ/\愚鈍な生れには、ちと解(げ)し難く、思はれてなりませんので、御意中を伺ひに参つた次第で」
云ひかけると、張飛は、
「手ぬるい/\。そんな云ひ方ではだめだ。面(おもて)を冒して直諫してこそ、忠臣のことばといふものぢやないか」
と、小声で〔けしか〕けた。
「うるさい、黙つてをれ——」と側の張飛を叱つて、関羽は又、
「さだめし、何か深いお考へのあることゝは存じますが、こゝ二月も毎日菜園へ出られ、黙々、百姓の真似事ばかりなされておいでになりますが、なぜ、御自身で糞土を担がなければなりませんか。——お体のためとあらば、弓馬の鍛錬をあそばしていたゞきたいものと思ひますが」
「さうだ!」
と、張飛はその図にのつて、
「今から君子や隠者の生活でもありますまい。百姓をやるなら何もわれ/\桃園に血をすゝり合つて、こんなとこ迄(まで)、旗をかついで来なくともよかつたんだ。失礼ながら、あなたの量見がわれわれに解りかねる」
玄徳は、笑をふくんだ儘(まゝ)、黙つて聞いてゐたが、
「汝等の知るところではない。解らなければ、黙つて、そち達はそち達の勤めをしてをれ」
「さうは行かない」
張飛は喰つてかゝつた。
「三人の血はひとつだ。三人は一心同体だと、家兄も常に云つてをるのではないか。われわれといふ手脚が、明暮れ弓矢をみがいてゐても、肩が糞土をかついでゐたり、頭が百姓になつてゐたんでは、一心同体とは申されまい」
「いや、参つた」
玄徳はかろく笑ひ流して、
「そのとほりである。——が、今にわかる時節もある。ふかい考へがあつての事。心配するな」
と、なだめた。
さう云はれると何もいへない。やはり曹操を謀るためかもしれぬ。よく考へてみると、玄徳の日課は、董承と密会した以後から始まつてゐる。
思ひ直して、二人はなほ、毎日の退屈を、なぐさめ合つてゐた。ところが、それから数日の後、連れ立つて外出したが、邸(やしき)へ帰つてみると、毎日すがたの見える菜園にも、奥にも玄徳が見えなかつた。
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次回 → 青梅、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ(三)(2024年12月14日(土)18時配信)