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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 鶏鳴(一)
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「おしまひ下さい」
涙をふき、密詔を拝して、玄徳はそれを、董承の手へ返した。
「国舅の御胸中、およそわかりました」
「御辺も、この密詔を拝して、世のために涙をふるつて下さるか」
「もとよりです」
「かたじけない」
と、董承は、狂喜して、幾たびか彼のすがたを拝した後、
「では、さらにもう一通、これをごらん願ひたい」
と、巻を展(ひら)いた。
同志の名と血判をつらねた義状である。
本頭(ホントウ)に、車騎将軍董承。
第二筆に、長水校尉种輯。
第三には、昭信将軍呉子蘭。第四、工部郎中王子服。第五、議郎呉碩などゝあつて、その第六人目には、西涼之太守、馬騰。
と、一きは筆太に署名されてある。
「おう、もはやこれまでの人々をお語(かたら)ひになりましたか」
「世はまだ滅びません。たのもしき哉、濁世のうちにも、まだ清隠の下、求めれば、かくの如き忠烈な人々も住む」
「この地上は、それ故に、どんなに乱れ腐(す)えても、見限つてはいけません。わたくしはいつもそれを信じてゐる。ですから、どんなに悪魔的世相があらわれても、決して悲観しません。人間はもう駄目だとは思ひません。むしろ、見えないところに、同じ思ひを抱いてゐる草間隠れの清冽(セイレツ)をさがし、人間の狂気した濁流をいつかは清清(セイ/\)淙々(サウ/\)たる永遠の流れに化(け)さんこその願望をふるひ起すのが常であります」
「皇叔。おことば伺つて、この老骨は、実にほつとしました。この年して初めてほんとの人間と天地の不朽を知つたこゝちがします。たゞいかにせむ、自分には乏しい力と才しかありません。お力をかして賜はるか」
「仰せまでもない儀。——こゝに名を連ねる諸公がすでに立つからには、玄徳も何で犬馬の労を惜(をし)みませうや」
彼は起(た)つて、自身、筆硯(ヒツケン)を取りに行つた。
その時。
小閣の外、廊や窓のあたりは、仄(かす)かに微光がさし初めてゐた。
夜は明けかけてゐたのである。外廊の廂(ひさし)からぽと/\霧の降る音がしてゐた。そこで何者か、声を出して泣いてゐる人影があつた。
玄徳は見向(みむき)もしない。けれど董承は、ぎよつとして、廊をさしのぞいた。
見れば、玄徳の護衛のため、夜どほし外に佇立してゐた臣下であつた。いや義弟の関羽と張飛の二名だつた。抱き合つて、欣(うれ)し泣きに、泣いてゐる様子なのである。
「……あ、二人も、こゝの密談を洩れ聞いて」
董承は、羨ましいものさへ覚えた。義状に名をつらねた人々のちかひも、もし玄徳と義弟たちの間のやうに、濃くふかく結ばれたら、必ず大事は成就するが——と思つた。
硯(すゞり)を持つて、玄徳は静かに、彼の前へもどつて来た。
そして、義状の第七筆に
左将軍劉備。
と、謹厳に書いた。
筆を措いて
「決して生命(いのち)を惜むのではありませんが、これだけはかたく奉じて戴(いたゞ)きたい。ゆめ、軽々しく、動かないことです。時いたらぬうちに軽挙妄動するの愚を戒めあふことです」
暁の微光が、さういふ玄徳の横顔を、見てゐるまに、鮮(あざや)かにしてゐた。遠く、鶏鳴が聞えた。
「……では、いづれ又」
客は、驢に乗つて、朝霧のなかを、ひそやかに帰つて行つた。
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次回 → 青梅(セイバイ)、酒ヲ煮(ニ)テ、英雄ヲ論ズ(一)(2024年12月12日(木)18時配信)