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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 油情燈心(六)
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昼は人目につく。
董承は或る夜ひそかに、密詔をふところに秘の頭巾に面(おもて)をかくして、
「風雅の友が秦代の名硯(メイケン)を手に入れたので、詩会を催すといふから、こよひは一人で行つてくる」
と、家人にさへ打明けず、たゞ一人驢に跨(またが)つて、玄徳の客館へ出向いて行つた。
それも、ふと曹操の密偵にでも見つかつて、あとを尾行(つけ)られてはならぬと、日頃、詩文だけの交りをしてゐる風雅の老友を先に訪ね、わざと深更まではなしこんで、夜も三更の頃気がついたやうに、
「やあ、思はず今夜は、はなしに実がいつて、長坐いたした。どうも詩や画のはなしに興じてゐると、つい時も忘れ果てゝ」
などゝ云ひながら、あわてゝその家を辞した。
そこは郊外なので、玄徳の客舎へ来たのは、もう四更に近かつた。
深夜。しかも、時ならぬ人の訪れに、
「何ごとか」
と、玄徳もあやしみながら彼を迎へ入れた。
が、——彼は、およそ客の用(ヨウ)向(むき)を察してゐたらしく、家僕が客院に燭をともしかけると、
「いや、奥の小閣にしよう」
と、自ら董承をみちびいて、庭づたひに、西園の一閣へ案内した。
許都へ来た当座は、曹操の好意で、相府のすぐ隣の官邸を住居としてあてがはれてゐたが、
「こゝは帝都の中心で、田舎漢(ゐなかもの)の住居には、あまり晴がましうござれば」
と、今のところへ引移つてゐたのだつた。
「何もありませんが」
と、すぐ青燈の下に、小酒宴(こざかもり)の食器や杯がならべられた。それ等の陶器といひ室の飾りといひ、清楚閑雅な主(あるじ)の好みがうかゞはれて、董承はもう、この人ならではと思ひこんでゐた。
四方(よも)のはなしの末に、
「時ならぬ御来駕は、何事でございますか」
と、玄徳から訊ね出した。
董承はあらたまつて、
「餘の儀でもありませんが、許田の御猟(みかり)の折、義弟関羽どのが、すでに曹操を斬らうとしかけたのを、あなたが、そつと眼や手をもつて、押止めておいでになつたが、その仔細を伺ひたいと思つて参上したわけです」
玄徳は、色を失つた。自分の豫感とちがつて、さては曹操の代りに、詰問に来たのかと思はれたからである。
——が、隠すべき事でもなく、隠しやうもない破目と、玄徳は心をきめた。
「舎弟の関羽は、まことに一徹者ですから、あの日、丞相のなされ方が、帝威を冒すものと見て、一時に憤激したものでせう。……や、や?……国舅、あなたは何故、わたくしの言を聞いて泣かれるのですか」
「いや、おはづかしい。実は今のおことばを伺つて、今もし、関羽どのゝやうな心根の人が幾人かゐたならば……と、つい愚痴を思ふたのでござる」
「府に、曹丞相あり、朝にあなたのやうな輔佐があつて、世は泰平に治まつてゐるではありませんか。何を憂(うれひ)となされるか」
「皇叔——」
董承は濡れた瞼をあげて、屹(キツ)と云つた。
「御身は、わしが曹操にたのまれて、肚でも探りに来たものと、ひそかに要心してをられやうが。……疑ふをやめ給へ。御辺は天子の皇叔、此方もまた外戚の端にあるもの、なんで二人のあひだに詐(いつは)りをさし挟まう。今、明(あきら)かに、実を告げる。これを見てください」
董承は、席を改め、口を嗽(うが)ひして、密詔を示した。
燈火を剪(き)つて、それへ眸をじつと落してゐた玄徳は、やがてとめどもなくながれる涙を両手で蔽(おほ)つてしまつた。悲憤のあまり彼の鬢髪(ビンパツ)はそゝけ立つて燈影(ほかげ)におのゝき慄(ふる)へてゐた。
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次回 → 鶏鳴(二)(2024年12月11日(水)18時配信)