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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 油情燈心(五)
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馬騰は、彼の真意を聞き、又帝の密詔を拝するに及んで、男泣きに慟哭した。彼は、遠い境外の西蕃からも、西涼の猛将軍と恐れられてゐたが、涙もろく、そして義胆(ギタン)鉄のごとき武人だつた。
「お身にも、自分と同じ志があると知つたとき、この董承の胸は、血で沸くばかりぢやつたが、待て暫しと、猶(なほ)、無礼もかへりみず、御心底をはかつてゐたわけぢや。幸(さいはひ)にも、将軍が協力してくれるならば、大事はもう半ば、成就したやうなもの。——この連判に御身も加盟して賜はるか」
董承が云ふと馬騰は、ためらひなく自分の指を口中に突つこんだ。そして舌尖に血をながし、直(たゞち)に血判して、
「もし、この都の内で、曹操に対し、あなたが大事を決行する日が来たら、それがしは必ず西涼の遠きより烽火をあげて、今日の約にお応へ申さん」
云ふうちにも馬騰はまなじりを裂き、髪さかだち、すでに風雲に嘯(うそぶ)く日のすがたを憶(おも)はせるほどだつた。
董承はまた改めて、王子服と、种輯、呉碩の三名をよんで、馬騰にひきあはせた。義状に血誓した同志はこゝに五名となつたわけである。
「けふは何といふ吉日だらう。かういふ日に事をすゝめれば順調に運ぶにちがひない。ついでの事に王子服が、日頃人物を観ぬいてゐるといふ呉子蘭もこゝへ招て、大事を諮つてみては何(ど)うか」
董承のことばに、人々も同意したので、王子服はすぐ駒をとばして、呉子蘭を迎へに行つた。
呉子蘭も、この日、一員に加はつた。同志は六名となつた。
「真に心のかたい者が、十名も寄れば、大事は成るか」
と、そこの密室は、やがて前途を祝ふ小宴となつて、各々、義杯を酌み交(かは)しながら、そんな事を談じ合つた。
「さうだ……宮中の列座鴛行鷺序(レツザヱンカウロジヨ)をとりよせて、一人々々、点検してみよう」
董承は思ひついて、直(たゞち)に記録所へ使(つかひ)を走らせてそれを取寄せた。
列座鴛行鷺序というのは殿上の席次と地下諸卿にいたるまでの名をしるした官員録である。それをひらいて順々に見て行つたが、さて、人は多いが真に信頼のできる人はなかつた。
すると馬騰が
「あつた!こゝに唯ひとり人物がある」
と、さけんだ。
彼の声は、いくら側の者がたしなめても、常に人いちばい大きいので人々はびく/\したが、あつたと聞いて
「誰か」
と、彼の手にある一帖へ顔をあつめた。
「しかも、漢室の宗族のうちに此人(このひと)があらうとは。正に、天佑ではないか。見たまへ、御列親のうちに豫州の刺史劉玄徳の名があるではないか」
「おゝ……」
「爾餘(ジヨ)の十人よりも、此人ひとりを迎へれば、われ/\の誓ひは千鈞(センキン)の重きを加へよう。……猶々(なお/\)、ありがたい事には、玄徳と彼の義兄弟のあひだにも、いつかは曹操を討たんとする意志があることだ」
「それは何(ど)うして分りますか」
「御狩(みかり)の日、傍若無人な曹賊が、帝のおん前に立(たち)ふさがつて、諸人の万歳をわがもの顔にうけた時、玄徳の舎弟関羽が、斬ツてかゝりさうな血相をしてをつた。思ふに玄徳も、機を計つて、隠忍してをるに相違ない」
馬騰のことばに、董承はじめ同志の人たちは、はや黎明を望んだやうに、前途に意を強うした。
しかし、玄徳の人物をよく知つてゐるだけに、彼をひき入れることは容易ではないと思つた。大事の上にも大事を取つたがよからうと、その日は立別れて、おもむろに好い機会を待つ事とした。
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次回 → 鶏鳴(けいめい)(一)(2024年12月10日(火)18時配信)