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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 油情燈心(四)
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「悪いところへ」
董承は舌打(したうち)をした。客の王子服や呉碩たちも、眉をひそめて、
「本国へ帰る挨拶に伺つたとあれば、お会ひにならないわけにもいかないでせうが」
と、主(あるじ)の顔を見まもつた。
董承は、顔を振つて、
「いや、会ふまい。ふと、変に気どられまいものでもない」
飽(あく)まで要心して、取次の者に、許田の御猟からずつと病気で引(ひき)籠(こも)つてゐるから——と丁寧に断らせた。
だが取次の者は、何遍もそこへ通つて来た。
「——病床でもよろしいからお目にかゝりたいと云つて、いくらお断り申しあげても帰りません」
と、いふのである。
「——それに又、御猟(みかり)以来、ご病中とのことだが、先頃、宮門に参内する姿をちらりとお見かけした程だから、さほど御重病でもあるまいと、威(ヰ)猛高(たけだか)に仰つしやつて、容易にお戻りになる気色もございませんので」
と、取次の家人は果(はて)は、泣声で訴へてくるのだつた。
「しかたがない。——では、別室でちよつと会はう」
遂に、董承も根負けして、ぜひなく病態をつくろつて、馬騰をべつな閣へ通した。
西涼の太守馬騰は、ぷん/\忿(おこ)りながら客院へ入つて来た。そして主の顔を見るなり、云つた。
「国舅は、天子の御外戚、国家の大老と敬つて、特に、おわかれの御挨拶に伺つたのに、門前払ひとは、餘りなお仕打(しうち)ではないか。何かこの馬騰に、御宿意でもおありでござるか」
「宿意などゝはとんでもない。病中故、かへつて失礼と存じたまでのこと」
「それがしは、遠い辺土の国境にあつて、西蕃(セイバン)の守りに任じ、天子に朝拝する折もめつたになく、国舅とも稀にしかお目にかゝれんで、押(おし)て御面会をねがつたわけだが——かう打(うち)見るところ、さして御病中のやうにも見られぬ。何故、それがしを軽んじて、門前から逐(お)ひ返さんとなされたか。近ごろ心得ぬ事ではある」
「……」
「何で御返辞もないか」
「……」
「俯(うつ)向いたまゝ啞の如く一言もないとは、どういふわけだ。——噫(あゝ)、今まで、御身を、馬騰はひとりで買(かひ)かぶつてゐたとみえる」
憤然と、彼は席を立ちながら、主の沈黙へ唾するやうに云ひ捨てた。
「これも国の柱石ではない!無用な苔ばかり生やした、凡(たゞ)の石塊(いしころ)だつたか——」
董承は、彼の荒い跫音(あしおと)にやにはに面をあげて、
「将軍つ、待ちたまへ!」
「なんだ、苔石」
「儂(み)を国の柱石でないとは、いかなるわけか。理由を聞きたい」
「怒つたのか。怒るところを見ればこの石〔ころ〕にもまだ少し脈はあると見える。——眼を凝(こら)してよく見よ、曹操が御猟の日に鹿を射るの暴状を。——心耳を澄ましてよく聴くがいゝ、為に怒る義人の血の音を」
「曹操は、兵馬の棟梁、一世の丞相、その怒りを抱いたところでどうしよう」
「ばかな!」
馬騰は眉をあげて、
「生をむさぼり、死を怕(おそ)るゝ者とは、共に大事を語るべからず。——いや、お邪魔いたした。其許(そこもと)はせい/゛\陽(ひ)〔なた〕で贅肉をあたゝめて頭や腮(あご)の白い苔を養つてゐるがよろしからう」
すでに大股に帰りかけてゆく馬騰を追つて董承は、
「待たれい。この苔石がもう一言(ひとこと)、改めておはなし致したいことがある」
と、むりに袂をひいて、奥の閣に誘(いざな)ひそこで初めて董承は、密勅の事と自分の心の底を割つて語つた。
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次回 → 油情燈心(六)(2024年12月9日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。