ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 油情燈心(三)
***************************************
……だが猶(なほ)、対手(あひて)の心は推し測れない。人のこゝろは読み難い。
董承はふかく用心して、
「いや、許田の御猟(ごレフ)は、近来の御盛事じやつたな。臣下のわれわれも、久しぶり山野に鬱を散じて、寔(まこと)に、愉快な日であつた」
さりげなく答へると、呉碩、种輯のふたりは、改まつて、
「それだけですか」
と詰問(なじ)るやうに云つた。
「——愉快な日であつたとは、国舅の御本心ではありますまい。われわれはむしろ今も痛恨を胆(きも)に銘じてをります。——何で愉快な日であるものか。許田の御猟は、漢室の恥辱日です」
「なぜかの……」
「なぜかとお問ひなさいますか。では国舅には、あの日の曹操の振舞を、その御眼(おめ)に、何とも思はず御覧なさいましたか」
「……すこし、声をしづかにし給へ。曹操は、天下の雄、壁に耳ありのたとへ、もしそのやうな激語が洩れ聞えたら」
「曹操が何でそんなに怖ろしいのですか。雄は雄にちがひありませんが、天の組(くみ)さぬ奸雄です。われ等、微力といへども、忠誠を本義とし、国家の宗廟を護る朝廷の臣から見れば、何等(なんら)、怖るゝに足る賊ではありません」
「卿等は、そんな事を、本心から云はるゝのか」
「元よりこんな事は、戯れに口にする問題ではありますまい」
「だが、いかに痛恨してみても、実力のある曹操をどうしようもあるまいが」
「正義が味方です。天の加護を信じます。密かに、時を待つて、彼の虚をうかゞつてゐれば、たとひ喬木でも、大廈(タイカ)高楼(カウロウ)でも、一挙の義風に仆(たふ)せぬことはありますまい。……実は、今日こそ、国舅のお胸を叩いて、真実の底をうかゞひたいものと、ふたりして伺つた次第です」
「…………」
「国舅、あなたは先日、ひそかに帝のお召(めし)をうけ、大廟の功臣閣にのぼられて、その折何か、直々(ぢき/\)に、特旨をおうけ遊ばしたでございませうが。……御隔意なく打明けてください。われわれとて、累代、漢の祿を喰(は)んで来た朝臣です」
この少壮な宮中の二臣は、つい声が激してくるのを忘れて、董承へ問ひ迫つてゐた。
——と、さつきから屏風のうしろに潜んでゐた王子服は、ひらりと姿を現して、
「曹(サウ)丞相(セウジヤウ)を殺さんとなす謀叛人共、そこをうごくな。すぐ訴人してこれへ相府の兵を迎へによこすであらう」
と、大喝した。
种輯、呉碩のふたりは、驚きもしなかつた。冷(ひや)やかに王子服を振向いて、
「忠臣は命を惜(をし)まず、いつでも一死は漢にさゝげてある。訴人するならいたしてみろ」
と、剣に手をかけて、彼が背を見せたら、うしろから、一撃に斬つて捨てん——とするかのやうな眼光で答へた。
王子服と董承は、
「いや、お心のほど、確(しか)と見とゞけた」
と、同時に云つて、ふたりの激色をなだめた。そして改めて密室に移り、試みに罪を謝して、
「これを見給へ」
と、帝の血詔と、義文連判の一巻とを、それへ展(の)べた。
种輯、呉碩は、
「さてこそ」
と、血の御文を拝し、哭(な)いて、連判に名をしるした。
折も折、そこへ、取次の家人から、
「——西涼の太守馬騰様が、本国へお帰りになるとかで、おわかれの挨拶にと、お越しになりましたが」
と、告げて来た。
**************************************
次回 → 油情燈心(五)(2024年12月7日(土)18時配信)