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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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親友ではあるが、相手の答へによつては、刺し交(ちが)へて死なんともするやうな董承の血相であつた。王子服は静かに笑つて、
「安んじて下さい。小生とても、何で漢室の鴻恩(コウオン)を忘れませうや。今いつたのは戯れです。——だが、尊臺が大事を秘すの餘り、小生にもかくして、たゞお独りで憂ひ窶(やつ)れてをられる事は、親友として不満でなりません」
と、云つた。
董承は、ほつと、胸をなでおろしながら、彼の手をいたゞいて額に拝し、
「ゆるし給へ。決して君の心を疑つてゐたわけではないが、まだ自分に明らかな計策がつかないので、数日、混沌と思ひ煩(わづら)つてゐたわけです。——もし君も力をかして、わが大事に組(くみ)してくれゝば、それこそ天下の大幸といふものだが」
「およそ貴憂(きゆう)は察してゐます。願はくば、一臂(イツピ)の力をお扶(たす)けして、義を明らかにしてみせませう」
「ありがたう。今は何をかくさう。総(すべ)てを打(うち)明(あけ)る。うしろの扉(と)をしめてくれたまへ」
董承は襟を正した。そして彼に示すに、帝の血書の密詔を以てし、声涙共にふるはせながら、意中を語り明かした。
王子服も、共々、熱涙をうかべて、しばし燭(シヨク)に面(おもて)をそむけてゐたが、やがて、
「よく打明けてくださいました。よろこんで義に組(くみ)します。誓つて、曹操を討ち、帝のおこゝろを安んじませう」
と、約した。
そこで二人は、密室の燭を剪(き)つて、改めて義盟の血をすゝりあい、後、一巻の絹を取出して、まづそれに董承が義文を認めて署名する。次に、王子服も姓名を書き載せて、その下に血判した。
「これで、君もわれとの義盟にむすばれたが、猶(なほ)、よい同志はないであらうか」
「あります。将軍呉子蘭(ゴシラン)は、小生の良友ですが、特に忠義の心の篤い人物です。義を以て語れば、必ずお力となりませう」
「それは頼もしい。朝廟にも校尉种輯(チウシフ)、議郎呉碩(ゴセキ)の二人がある。二人とも漢家の忠良だ。吉(よ)い日をはかつて、打明けてみよう」
夜も更けたので、王子服はそのまゝ泊つてしまつた。そして翌る日も、主人の書斎で何事か密(ひそ)かに話しこんでゐたが、午頃(ひるごろ)、召使(めしつかひ)がそこへ来客の刺を通じた。
「うはさをすれば影。よいところへ」と、董承は手を打つた。
「誰ですか、お客は」
王子服がたづねると、
「ゆふべ君にもはなした宮中の議郎呉碩と校尉种輯ぢやよ」
「連れ立つて来たのですか」
「さうぢや。君もよく知つてゐるだらう」
「朝夕、宮中で会つてゐます。——が、両名の本心を見るまで、小生は屏風の陰にかくれてゐませう」
「それがいゝ」
客の二人は召使の案内で通されて来た。
董承は、出迎へて、
「やあ、ようお越し下すつた。けふは徒然(つれ/゛\)の餘り読書に耽つてゐたところ、折からの御叩門(ごコウモン)、うれしいことです」
「読書を。それは折角の御静日を、お邪魔いたしましたな」
「何、書にも倦(う)んでゐたところぢや。しかし、史はいつ読んでもおもしろいな」
「春秋ですか。史記ですか」
「史記列伝を」
「時に」
と、呉碩が、はなしの穂を折つて、唐突に云ひ出した。
「先ごろの御猟(ごレフ)の日には、国舅もお供なされてをりましたね」
「むゝ、許田の御猟か」
「さうです。あの日、何かお感じになつたことは御座いませんか」
計らずも、自分の問はうとする所を、客の方から先に訊ねられたので、董承はハツと眉をあらためた。
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次回 → 油情燈心(四)(2024年12月6日(金)18時配信)