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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 油情燈心(一)
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侍郎(ジラウ)王子服(ワウジフク)は、董承の無二の親友であつた。朝廷に仕へる身は、平常外出も自由でないが、その日、小暇を賜はつたので、日頃むつまじい董承のやしきを訪れ、家族の中に交つて、終日、奥で遊んでゐた。
「御主人はどうしましたか」
夕方になつても、董承が顔を見せないので、王子服は、すこし不平さうにたづねた。
家族のひとりが答へて、
「奥にいらつしやいますけれど、先日から調べ物があると仰つしやつて引籠つたきり、何方(どなた)にもお会ひしない事にしてをります」
と、云つた。
「それは、変だな。一体、何のお調べ事ですか」
「何をお調べなさるのか、私たちには分りませんが」
「さう根気をつめては、お体にも毒でせう。小生が参つて、みんな共に、今夜は笑ひ興じるやうにすゝめて来ませう」
「いけません。王子服様、無断で書斎へ行くと、怒られますよ」
「怒つたつてかまひません。親友の小生が室を窺(うかゞ)つたと云つて、まさか絶交もしやしないでせう」
自分の家も同様にしてゐる王子服なので、家人の案内もまたず主人の書院のほうへ独りで通つて行つた。家族たちも、ちよつと困つた顔はしたものゝ、ほかならぬ主人の親友なので、晩餐の支度にまぎれたまゝ打捨てゝおいた。
主人の董承は、先頃から書院に閉ぢこもつたきり、何(ど)うしたら曹操の勢力を宮中から一掃することができるか、帝の御宸襟(ごシンキン)を安んじて御期待にこたへることがでけふか。朝念暮念、曹操を亡(ほろぼ)す計策に腐心して、今も、書几(つくゑ)に倚(よ)つて思ひ沈んでゐた。
「……おや。居眠つてをられるのか?」
そつと、室を窺つた王子服は、そのまゝ彼のうしろに立つて、何を肘(ひじ)の下に抱いてゐるのかと、書几(つくゑ)の上をのぞいてみた。
血で書ゐた白絖(しろぎぬ)の文のうちに「朕」といふ文字がふと眼にうつつた。王子服が、はつとしたとたんに、董承は、誰やら背後(うしろ)に人のゐる気はいを感じて、何げなく振向いた。
「あつ、君か」
びつくりしたやうに、彼はあわてゝ几上(キジヤウ)の一(イチ)文(モン)を袂(たもと)の下に蔵(しま)ひかくした。王は、それへ眼をとめながら、
「——何ですか、今のは?」
と、軽く追求した。
「いや、べつに……」
「たいさうお疲れのやうにお見うけされますが」
「ちと、こゝ毎日、読書に耽(ふけ)つてゐるのでな」
「孫子の書ですか」
「えつ?」
「おかくしなすつてもいけません。お顔色に出てゐます」
「いや、疲労ぢやよ」
「さうでせう、御心労もむりはない。まちがへば、朝門は壊(つひ)え、九族は滅され、天下の大乱ですからな」
「げつ……。君は。……君はいつたい、何を戯れるのぢや」
「国舅。もし小生が、曹操のところへ、訴人に出たら何(ど)うしますか」
「訴人に?」
「さうです。小生は今日まで、あなたとは刎頸(フンケイ)の交(まじは)りを誓つて来たものとのみ思つてゐました。——ところが、何ぞ知らん、あなたは小生に水くさい秘(かく)し事を抱いておいでになる」
「…………」
「無二の親友と信じて来たのは、小生だけのうぬ惚れでした。訴人します。——曹操のところへ」
「あつ、待(まち)給(たま)へ」
董承は、彼の袖をとらへ、眼に涙を泛(うか)べて云つた。
「もし御辺がそれがしの秘事を覚つて、曹操へ訴へ出るなら、漢室は滅亡するほかない。君も累代漢室の御恩をかうむつた朝臣のひとりではないか。……どんな親密な仲であらうと、友への怒りは私怨である。君は、私怨のために大義を忘れるやうな人ではなかつたはずだが」
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次回 → 油情燈心(三)(2024年12月5日(木)18時配信)