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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 秘勅を縫ふ(四)
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「あゝ危かつた」
虎口をのがれたやうな心地を抱へて、董承はわが邸(やしき)へいそいだ。
帰るとすぐ、彼は一室に閉ぢこもつて、御衣と玉帯を検(あらた)めてみた。
「はてな。何物もないが?」
猶(なほ)、御衣を振ひ、玉帯の裏表を調べてみた。しかし一葉の紙片だに現れなかつた。
「……自分の思ひ過しか」
畳み直して、恩賜の二品を、卓の上においたが、何となく、その夜は、眠れなかつた。
二品を賜はる時、帝は意味ありげに、御眼をもつて、何事か、暗示された気がする。——その時の帝のお顔が瞼から消えやらぬのであつた。
それから四、五日後のことである。董承はその夜も卓に向つて物思はしく頰杖ついてゐた。——と、いつのまにか、疲れが出て、うと/\と居眠つてゐた。
折ふし、傍らの燈火が、ぽつと仄(ほの)暗(ぐら)くなつた。洩れ来る風にまたたいて丁子(テフジ)頭(がしら)がポトリと落(おち)た。
「…………」
董承はなほ居眠つてゐたが、そのうちに、ぷーんと焦(こげ)くさい匂ひが鼻をついた。愕いて眼をさまし、ふと、見まはすと、燈心の丁子が、そこに重ねてあつた玉帯のうへに落(おち)て、〔いぶり〕かけてゐたのであつた。
「あ……」
彼の手は、あわてゝ揉み消したが、龍の丸の紫金襴(シキンラン)に、拇指(おやゆび)の頭ぐらいな焦げの穴がもうあいてゐた。
「畏れ多いことをした」
穴は小さいが、大きな罪でも犯したやうに、董承は、すつかり睡気(ねむけ)もさめて、凝視してゐたが、——見る/\うちに、彼のひとみはその焦穴(こげあな)へ更(さら)にふたゝび火をこぼしさうな耀きを帯びてきた。
玉帯の中の白絖(しらぎぬ)の芯が微かに窺(うかゞ)へたのである。それだけならよいが、白絖には、血らしいものが滲(にじ)んでゐる。
さう気がついて、つぶさに見直すと、そこ一尺ほどは縫目(ぬひめ)の糸も新しい。——さては、と董承の胸は大きく波(なみ)搏(う)つた。
彼は小刀を取出して、玉帯の縫目を切(きり)ひらいた。果(はた)して、白絖に血をもつて認(したゝ)めた密書があらはれた。
董承は、灯(ひ)を剪(き)つて、敬礼をほどこし、顫(わなゝ)く手に読(よみ)下(くだ)した。
朕聞ク。
人倫ノ大(おほい)ナルハ、父子ヲ先トシ。
尊卑ノ殊(ことな)ルハ、君臣ヲ重シトスト。
近者(ちかごろ)。——曹賊出テヨリ閣門濫叨
(ランタウ)シ、輔佐ノ実(ジツ)ナク、
私党結連、朝綱忽チ敗壊ス。
勅賞封罰ミナ朕ガ胸ニアラズ。
夙夜、憂思シテ恐ル、将(まさ)ニ天下危カ
ラントスルヲ。
卿ハ乃(すなは)チ国ノ元老、朕ガ至親タリ。
高祖ガ建業ノ艱ヲ念(おも)ヒ、忠義ノ烈士ヲ
糾合シ、姦党ヲ滅シ、社稷ノ暴ヲ未萌(ミホウ)
ニ除キ、以(もつ)テ祖宗ノ治業大仁ヲ万世ニ
完(まつた)カラシメヨ。
愴惶、指ヲ破ツテ詔ヲ書キ、卿(なんぢ)ニ
付ス。再四慎ンデ之(これ)コレニ負(ソム)
クコトアル勿(なか)レ。
建安四年春三月詔
「…………」
涙は滂沱(バウダ)と血書にこぼれ落(おち)た。董承は俯し拝んだまゝ暫し面もあげ得なかつた。
「かほど迄(まで)に。……何たる、おいたはしいお気づかひぞ」
同時に、彼はかたく誓つた。この老骨を、さほどまで恃(たの)みに思(おぼし)召すからには、何で怯(ひる)まうと、何で、餘命を惜(をし)まうと。
併(しか)し、事は容易でない。
彼は血の密書を、そつと袂(たもと)に入れて、書院のはうへ歩いて行つた。
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次回 → 油情燈心(二)(2024年12月4日(水)18時配信)