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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 秘勅を縫ふ(三)
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【前回迄の梗概】
◇…後漢末の乱世に乗じて許都の曹操、小沛の呂布、江南の袁術、江東の孫策が互ひに覇を争ひ容易に小沛がつかなかつたが、曹操玄徳の聯合軍と部下の内応に呂布敗滅し、許都に皇帝を擁する曹操の勢威はいよ/\振つた。
◇…玄徳も功により旧領たる徐州の太守に任ぜられたが、たまたま勅問によつて語つた身の上に皇叔たることが判明、特に左将軍宜城亭侯に封ぜられ、曹操に対立するの勢を示してきた。
◇…この有様に心安からぬ曹操は、年来の野心をいよ/\露骨に示し、やゝもすれば僭横の振舞ひが多かつた、餘りにも人もなげな行動に関羽、玄徳も期する所があつたが、温和なる帝も遂に意を決し、国舅董承を召した。然しこれは早くも曹操の知るところとなつた……。
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董承は体のふるへが止まらなかつた。生きたそらもなく佇(たゝす)んでゐた。
「おう、国舅(コクキウ)。はや御退出か?」
曹操は、声をかけながら、歩み寄つて来た。
ぜひなく董承も、
「これは丞相でしたか。いつも御機嫌よく、何よりに存じます」
さりげなく会釈を返すと、曹操は、口辺に微苦笑をたゝへながら、
「——時に、国舅には、今日、何事の御出朝であるか?」
と、訝(いぶか)るやうな眼を露骨に向けて訊ねた。
「はつ、実は……」
と、董承は答へも〔しどろもどろ〕に、
「天子のお召(めし)に応じて、何事かと、参内いたしましたところ、思ひがけなく、錦の御衣と玉帯とを賜はり、天恩のかたじけなさに、実は、気もそゞろに、私第(シテイ)へ退(さが)つて参つたところです」
「ほう。……天子より御衣玉帯を賜はられたとか。それは近頃、御名誉なことである。然(しか)し、何の功があつて、左様な栄に浴されたかな」
「往年、長安から御遷都のみぎり、不肖、身をもつて賊徒を防ぎ奉つた功労を得に思(おぼし)召されて」
「何。あの時の恩賞を今頃?……。さりとは遅いお沙汰ではあるが、陛下の御衣玉帯を親しく賜はるなどは、例外な特旨。何しても御名誉この上もないことだ」
「徳うすく功も乏(とぼ)しき微臣に、まつたく冥加(ミヤウガ)に餘ることゝ感泣してをります」
「さもあらう。曹操なども、少しあなたに〔あやかり〕たいものだ。その御衣と玉帯を、ちよつと、予に見せて給(たま)はらぬか」
曹操は手を出して迫つた。そして董承の顔色を読むやうにじつと見るのであつた。董承は、踵(かゝと)の下から全身に慄(ふる)への走るのをどうしやうもなかつた。
——今日、功臣閣での帝の御気色といひ、その折の意味ありげなおことばといひ、董承は、凡事(たゞごと)ではないと恐察(キヨウサツ)してゐた。もしや賜はつた御衣玉帯のうちに、密詔でも秘め置かれてあるのではないか?——と、何となく、危ぶみ惧(おそ)れてゐたので、曹操のするどい眼に迫られると、とたんに彼は背に冷汗(ひやあせ)をながしたのである。
「見せ給へ」
曹操にせがまれて、彼は、ぜひなく御衣玉帯をその手に捧げた。
曹操は無造作に、御衣をぱらりと展(ひろ)げて、陽にかざした。そして自分の体に重ね著(ぎ)して玉帯を掛け、左右の臣をかへりみて、
「どうだ、似合ふか」
と、たづねた。
誰も笑へなかつた。
「似合ふだらう。これはいゝ」
曹操は独り笑ひ興じながら、
「国舅、これは予に所望させ給へ。何か代りの礼はする故(ゆゑ)、曹操に譲つてくれい」
「とんでもない事です。他ならぬ恩賜の品。差上げるわけにはゆきません」
董承が容(かたち)を改めて云ふと、
「然(しか)らば、何かこの裡(うち)に、帝と国舅のあひだに謀略(はかりごと)が秘めてあるのではないか」
「さうお疑ひになればぜひもありません。御衣も玉帯も、献じませう」
「いや冗談だよ」
曹操は急に打消して、
「なんで猥(みだ)りにひとの恩賜を、予が横奪りしよう。戯れてみたに過ぎん」
と、二品を返して、宮殿の方へ足早に立去つてしまつた。
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次回 → 油情燈心(ゆじやうとうしん)(一)(2024年12月3日(火)18時配信)