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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 秘勅を縫ふ(二)
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壁の画像をさして、帝は、重ねて董承の説明を求められた。——高祖皇帝の両側に侍(ジ)せるはそも如何(いか)なる人か、と。
董承は謹んで答へた。
「上(かみ)は張良(チヤウリヤウ)。下(しも)は蕭何(セウカ)であります」
「うム。して張良、蕭何のふたりは、どういふ功に依つて、高祖のかたはらに立つか」
「張良は、籌(はかりごと)を帷幄(ヰアク)の中にめぐらして、勝(かち)を千里の外に決し、蕭何は国家の法をたてゝ、百姓をなづけ、治安を重くし、よく境防を守り固めました。高祖もつねにその徳を称せられ、高祖のおはすところ必ず二者侍立してをりましたとか。——故(ゆゑ)に後代ふたりを以て建業の二功臣とあがめ、高祖皇帝を画けば、必ずその左右に、張良、蕭何の二忠臣を画くことゝなつたものでありませう」
「なるほど、二臣のやうな者こそ、真に、社稷(シヤシヨク)の臣というのであらうな」
「……はつ」
董承は、ひれ伏してゐたが、頭上に帝の嘆息を聞いて、何か、責められてゐるやうな心地に打たれてゐた。
帝は、突然、身をかゞめて董承の手をおとりになつた。はつと、董承が、恐懼して、うろたへを感じてゐると、低い御声に熱をこめて、
「国舅。御身も今からはつねに、朕が側(かたは)らに立つて、張良、蕭何の如く勤めてくれよ」
「畏れ多い御意を」
「否(いな)とか」
「滅相もない。ただ、臣の駑才(ドサイ)、何の功もなく、いたづらに侍側の栄を汚すのみに終らんことを懼(おそ)れまする」
「いや/\、往年長安の大乱に、朕が逆境に浮沈してゐた頃から卿のつくしてくれた大功は片時も忘れてはゐない。何を以て、その功にむくうてよいか」
帝は、さう宣(のたま)ひながら、親(みづか)ら上の御衣を脱いで、玉帯をそれに添へ、御手づから董承に下賜された。
董承は、餘りの冥加(ミヤウガ)に、やゝしばし感泣してゐた。そして拝受した御衣玉帯の二品をたづさへ、間もなく宮中から退出した。
すると、早くも。
この日の帝と董承の行動は、もう曹操の耳に知れてゐた。誰か密報した者があつたにちがひない。曹操は聞くと、
「はてな?……」と、針のやうな細い目を熒々(ケイ/\)と一方に向けて、猜疑(サイギ)の唇を嚙んでゐた。
思ひあたる何ものかゞあつたとみえる。曹操はにはかに車や供揃へを命じ、慌(あはたゞ)しく宮門へ向つて参内して来た。
禁衛の門へかゝると、
「帝には、今日、どこの臺閣においで遊ばすか」
と、家臣をして、衛府の吏(リ)に問はせた。
「たゞ今、大廟に詣でられて、功臣閣へおのぼりになつてをられます」
と、聞くと、曹操は、さてこそと云はぬばかりな面持(おももち)で、宮門の外に車を捨て、足の運びも忙しげに、禁中へ進んで行つた。
——と。折も折。
南苑の中門まで来ると、ちやうど今、彼方から退出して来る董承とばつたり出会つてしまつた。
董承は、曹操のすがたを見かけると、ぎよツと顔色を変へた。抱へてゐた恩賜の御衣と玉帯を、あわてゝ、袂(たもと)で蔽(おほ)ひかくしながら、苑門(ヱンモン)の傍(かたは)らに身を避けてゐた。
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次回 → 秘勅を縫ふ(四)(2024年12月2日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。