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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 秘勅を縫ふ(一)
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次の日、帝(テイ)は、ひそかに勅し給うて、国舅(コクキウ)の董承を召された。
董承は、長安このかた、終始傍に仕へてあの大乱から流離のあひだも、よく朝廷を護り支へてきた御林(ギヨリン)の元老である。
「何ごとのお召(めし)にや?」
と、彼は急いで参内した。
帝は、彼に仰せられた。
「国舅。いつも体は健(すこや)かにあるか」
「聖恩に浴して、かくの如く、何事もなく老(おい)を養つております」
「それは何よりもめでたい。実は昨夜、伏皇后と共に、長安を落ちて、李確(ママ)、郭氾(クワクハン)(ママ)などに追はれた当時の苦しみを語りあひ、そちの功労をも思ひ出して涙したが、考へてみると、今日まで、御身にはさしたる恩賞も酬(むく)はで過ぎた。——国舅、この後とも、朕が左右を離れてくれるなよ」
「勿体ない御意を……」
董承は、恐懼して、身の措くところも知らなかつた。
帝(テイ)はやがて董承を伴つて、殿廊を渡られ、御苑を逍遥して、なほ、洛陽から西都、この許昌と、三度も都を遷(うつ)したあひだの艱難を何かと語られて、
「思ふに、いくたびか、存亡の淵を経ながらも、今日なほ、国家の宗廟が保たれてゐることは、ひとへに、御身のやうな忠節な臣のあるおかげだ」
と、沁々(しみ/゛\)云はれた。
玉歩は、更に、彼を伴つたまゝ大廟の石段を上がられて行つた。帝は、大廟に入ると、直(たゞち)に、功臣閣にのぼり、自ら香を焚(た)いて、その前に三礼された。
こゝは漢家歴代の祖宗を祠(まつ)つてある霊廟である。左右の壁間には、漢の高祖から二十四代にわたる世々の皇帝の肖像が画かれてあつた。
帝は、董承にむかつて、
「国舅——。朕が先祖は、いづこから身をおこして、この基業を建て給うたか。朕が学問のために、由来を述べられい」
と、襟を正して下問された。
董承は、愕(おどろ)き顔に、
「陛下。臣に、いさゝか、おたはむれ遊ばすか」
と、身をすくめた。
帝は、一しほ厳粛に、
「聖祖の御事。かりそめにも、たはむれようぞ。すみやかに説け」
董承はやむなく、
「高祖皇帝におかれましては、泗上(シジヤウ)の亭長に身を起したまひ、三尺の剣を提(さ)げて、白蛇を茫蕩山(バウタウザン)に斬り、義兵をあげて、乱世に縦横し、三年にして秦をほろぼし、五年にして楚を平げ、大漢四百年の治をひらいて、万世の基本(もとゐ)をお建て遊ばされたことは、——臣が改めて申しあげるまでもなく、児童走卒といへども辨(わきま)へぬはございません」
と、述べた。
帝は、自責して、さんさんと御涙をたれられた。
「……陛下。何をそのやうにお嘆きあそばすか」
董承が、畏(おそ)る/\伺(うかゞ)ふと、帝は嘆息して云はれた。
「今、御身の説かれたやうな先祖をもちながら、子孫には、朕のごとき懦弱なものが生れたかと思うて、朕は朕の身をかなしむのである。……国舅、更に説いて、朕に訓(をし)へよ。して又、その高祖皇帝の画像の両側に立つてゐる者は、どういふ人物であるか」
何か深い叡慮のあることゝは、董承にもはや察しられたが、帝の餘りにもきびしい御(おん)眼(まな)ざしに身も硬(こは)ばつて、彼は遽(にはか)に唇(くち)もうごかなかつた。
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次回 → 秘勅を縫ふ(三)(2024年11月30日(土)18時配信)