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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 許田(きよでん)の猟(かり)(五)
今回より14冊単行本の第5巻「臣道の巻」となります。
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禁苑(キンヱン)の禽(とり)は啼いても、帝はお笑ひにならない。
簾前(レンゼン)に花は咲いても、帝のお唇(くち)は憂をとぢて語らうともせぬ。
けふも終日(ひねもす)、帝は、禁中の御座所に、物思はしく暮しておはした。
三名の侍女が夕べの燭(シヨク)を点じて去る。
なほ、御眉の陰のみは暗い。
伏(フク)皇后は、そつと問はれた。
「陛下。何をそのやうに御宸念(ゴシンネン)を傷めておいで遊ばしますか」
「朕の行末(ゆくすゑ)は案じぬが、世の末を思ふと、夜も安からず思ふ。……哀(かなし)い哉(かな)、朕は抑(そも)、いかなれば、不徳に生れついだであらう」
はら/\と、落涙されて、
「——朕が位に即(つ)いてから一日の平和もなく、逆臣のあとに逆臣が出て、董卓の大乱、李確(ママ)、郭氾(ママ)の変と打(うち)つゞき、漸く都をさだめたと思へば、又も曹操が専横に遭い、事々に、朝威の失墜を見ようとは……」
共にすゝり哭(な)く伏皇后の白い御頸(おんうなじ)に、燭は暗くまたゝゐた。
「政治(まつり)は朝廟で議するも、令は相府に左右される。公卿百官はをるも、心は曹操の一顰一笑(イチビンイチセウ)のみ怖れて、又、宮門の直臣たる衿度(キンド)を持してをる者もない。——朕に於(おい)てすら、身は殿上にあるも、針の氈(むしろ)に坐してゐるこゝちがする。——噫(あゝ)、いつの日、この虐(しひた)げと辱(はぢ)とからのがれる子とができるであらう。漢室四百餘年の末、今ははや一人の忠臣もないものか。——朕が身を歎くのではないぞ。朕は、末世をかなしむのである」
すると。
御簾(ギヨレン)の彼方に誰やら沓(くつ)の音がした。帝も皇后もはつとお口をとぢた。——が、幸(さいはひ)に案じた人ではなかつた。伏皇后の父の伏完(フククワン)であつた。
「陛下、お嘆きは、御無用でございます。こゝに伏完もをりまする」
「皇丈。……御身は、朕が腹中のことを知つて、さう云はるゝのか」
「許田に鹿を射る事——誰か朝廷の臣として、切歯しない者がありませう。曹操が逆意は、すでに、歴々といへまする。あの日、彼が敢(あへ)て、主上を僭(をか)し奉つて、諸人の万歳をうけたのも、自己の勢威を衆に問ひ、自己の信望を試みてみた奸策に紛れなしと、わたくしは見てをりました」
「皇丈。ひそかに申せ。禁中も悉(こと/゛\)く曹操の耳目と思つてよいほどであるぞ」
「お案じ遊ばしますな。こよひは侍従(ジジウ)宿直(とのゐ)も遠ざけて、わづか忠良な者だけが遠く居るに過ぎませんから」
「では、そちの意中をまづ訊(き)かう」
「臣の身がもし陛下の親しい国戚でなかつたら、いかに胸にある事でも、決して口外はいたしません」
と伏完は茲(こゝ)に初めて、曹操調伏の意中を帝に打明け、帝も亦(また)、お心をうごかした。
「——が、いかにせむ、臣はもはや年も衰へ、威名もありません。今、曹操を除くほどな者といへば、車騎将軍の董承(トウジヤウ)しかないと思ひます。董承をお召(めし)あつて、親しく密詔を降し給はゞ必ず御命を奉じませう」
事は、重大である。秘中の秘を要する。
——が、深く思ひこまれた帝は自ら御指をくひやぶつて、白絖(しろぎぬ)の玉帯(ギヨクタイ)へ、血しほを以て詔詞(みことのり)を書かれ、伏皇后にお命じあつて、それに紫錦(シキン)の裏をかさね、針の目もこまかに玉帯の芯に縫ひこんでしまはれた。
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次回 → 秘勅を縫ふ(二)(2024年11月29日(金)18時配信)