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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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曹操は、侍者に起されて、暁の寒い眠りをさました。夜はまだ明けたばかりの頃である。
「何か」
と、帳を払つて出ると
「城中より侯成といふ大将が降を乞うて出で、丞相に謁を賜(たま)はりたいと陣門にひかへて居ります」
と、侍者は云ふ。
侯成といへば、敵方でも一方の雄将と知つてゐる。曹操はすぐ幕営に引かせて彼に会つた。
侯成は脱出を決意した次第を話して、呂布の厩から盗んで来た赤兎馬を献じた。
「なに、赤兎馬を」
曹操のよろこび方は甚だしかつた。彼自身の立場こそ、実は進退谷(きはま)つてゐたところである。
窮すれば通ず。彼にとつては、天来の福音だつた。で、曹操は特に、侯成をいたはつて、種々(いろ/\)と糺(たゞ)した。
侯成はなほ告げた。
「同僚の魏続、宋憲のふたりも、城中にあつて、内応する手筈になつてをります。相丞にしてお疑ひなく一挙に攻め給ふならば、二人は城中に白旗を掲げ、直(たゞち)に、東の門をひらいてお迎へ申しませう」
曹操は、限りなく喜悦して、さらばとばかり、直(たゞち)に、檄文を認(したゝ)めて、城中へ矢文を射させた。
その文には。
今、明詔ヲ奉ジテ呂布ヲ征ス
モシ大軍ヲ抗拒スル者アラバ
満門悉(コト/゛\)ク誅滅セン
モシ城内ノ上ハ将校ヨリ庶民
ニ至ル迄ノ者、呂布ガ首ヲ献
ゼバ、重ク官賞ヲ加へン
大将軍曹・押字(かきはん)
朝焼の雲は紅々(あか/\)と城東の空にながれてゐた。同文の矢文が何十本となく射込まれたのを合図に、金鼓の響き、喊(とき)の声は、地を震はし、十数万の寄手は、いちどに城へ攻めかゝつた。
呂布は愕いて、早暁から各所の攻口を馳まはり、自身、督戦に当つたり、戟をふるつて、城壁に近づく敵を撃退してゐた。
ところへ、厩の者が
「昨夜、赤兎馬が、忽然と姿を消しました」
と、訴へて来た。
呂布は眉をひそめたが
「番人の怠つてゐる隙(すき)に手綱を断(き)つて、搦手(からめて)の山へのぼつて草でも食つてゐるのだらう。早く探して繫(つな)いでおけ」
と、罵つた。
前面の防ぎに、叱つてゐる遑(いとま)もなかつたのである。それほどこの日の攻撃は烈(はげ)しかつた。
敵は、次々と、筏(いかだ)を組んで、濁水を越え、打払つても打(うち)退(の)けても怯(ひる)まずに攀(よ)ぢ登つてくる。午の刻を過る頃には、両軍の水つく屍に壁(へき)は泥血に染まり、濁水の濠も埋まるばかりに見えた。
漸く、陽も西に傾く頃、寄手は攻めあぐねて、やゝ遠く退(ひ)いた。早朝から一滴の水ものまず、食物も摂(と)らず奮戦をつゞけてゐた呂布は
「噫(あゝ)。……まづこれで」
とほつと一息つくと共に、綿のやうに疲れた体を、一室の榻(タフ)に倚せて、居眠るともなく、うつら/\としてゐた。
——と、彼の息を窺(うかゞ)つて、音もなく床を這(は)ひ寄つて来た一人の将校がある。魏続であつた。
呂布の凭(もた)れてゐる戟の柄が榻の下に見える。——魏続は手をのばして、榻の下からその柄を強く引つ張つた。居眠つてゐた呂布は、不意に支へを外されたので
「——呀(あ)つ」
と、半身を前へのめらせた。
「しめたつ」
魏続が、奪つた戟を後(うしろ)へ抛(ハウ)るとそれを合図に、一方から宋憲が躍り出して、呂布の背をつきとばした。
「何をするつ」
猛虎は、床に倒れながら、両脚で二人を蹴上げたが、とたんに魏続、宋憲の部下の兵が、どや/\と室に満ちて、吠える呂布へ折重なつて、やがて鞠(まり)の如く、縛り上げてしまつた。
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次回 → 白門楼始末(二)(2024年11月18日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。