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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 破瓶(二)
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「この際、侯成のごとき得難い大将を馘(くびき)るのは、敵に歓びを与へ、味方の士気を損じるのみで、実に悲しいことです」
と諸大将は猶(なほ)、口を極めて、命乞(いのちごひ)をした。
呂布もたうとう我を折つて、
「それ程まで、汝等が申すなら、命だけは助けてくれる」
と云つたが
「禁酒令を破つた罪は不問に附すわけにはゆかん。百杖を打つて、見せしめてくれん」
と、直ちに、二人の武士へ、鞭を与へた。
二名の武士は、拝跪(ハイキ)したまゝ動かぬ侯成の背へ向つて、交(かは)る/゛\に、
「一(イチ)つ……」
「二つ……」
「三!」
「四!」
と、掛声をかけながら鞭を下し初めた。
忽ち、侯成の衣は破れ、肌が露(あら)はれた。その肌もみる/\うちに血を噴いて、背なか一面、斑魚(ハンギヨ)の鱗(うろこ)のやうにそゝけ立つた。
「三十!」
「三十一!」
諸大将は、面(をもて)をそむけた。
侯成は歯ぎしり嚙んで、凝固(じつ)とこらへてゐたが、りう/\と鳴る杖掛声が
「七十五つ」
「七十六」
と、数へられて来た頃、ウームと一声うめいて、悶絶してしまつた。
呂布はそれを見ると、ぷいと閣の奥へかくれ去つた。
諸大将は、武士に眼くばせを与へて、杖の数をとばして読ませた。
やがて、侯成が気がついて、己の身を見まはすと、一室のうちに寝かされて、幕僚の者に看護されてゐた。——彼は、潸然(サンゼン)となみだを流し、苦しげに顔をしかめた。
「痛いか。苦しいだらう」
と、友の魏続が慰めると、
「おれも武人だ。苦痛で哭(な)くのではない」
と云つた。
「——では、なんで哭くのか」
魏続が訊くと、侯成は、枕頭を見まはして
「今、こゝにゐるのは、君と宋憲だけか」
「さうだ……。この三名は日頃から何事も隔てのない仲だ。何でも安心して話し給へ」
「……では云ふが呂将軍に恨みとするのは、われわれ武人は芥(あくた)のごとく軽んじ、妻妾の媚言(ビゲン)には他愛なく動かされる事だ。このやうな状態では、遂に、われわれは犬死するほかあるまい——おれはそれを悲しむのだ」
「侯成!……」と宋憲は寄り添つて、彼の耳もとへ熱い息で囁(さゝや)いた。
「まつたくだ。実に、それがし達もそれを悲しむ。いつその事、城を出て、曹操の陣門に降らうではないか」
「……でも、城壁の四方は滔々(タウ/\)たる濁水だらう」
「いやまだ東の関門だけは、山の裾にかゝつてゐるので、道も水に浸されてゐない」
「さうか……」
侯成は、血の中から眼を開いて、ぽかつと天井を見てゐたが、不意に、むつくりと起上つて、
「やらう!決行しよう。……呂布(ロフ)(ママ)が頼みにしてゐるのは赤兎馬だ。彼はわれわれ大将よりも赤兎馬を重んじ、婦女子を愛してゐる。——だから、おれは彼の厩(うまや)へ忍んで、赤兎馬を盗み出し、そのまま、城外へ脱出するから、君たちは後に残つて、呂布(ロフ)(ママ)を生(いけ)虜(ど)りたまへ」
「心得た!。……然(しか)しその重態な体で、君は大丈夫か」
「なんの、これしきの傷手(いたで)」
と侯成は唇(くち)をかんで、ひそかに身支度を変へ、夜の更けるのを待つてゐた。
四更の頃、彼は闇にまぎれて、閣裡(カクリ)の厩舎(うまや)へ這(は)ひ忍んで行つた。遠くから窺(うかゞ)ふと、折もよし、番の士卒はうづくまつて居眠つてゐる様子である。
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次回 → 白門楼始末(一)(2024年11月16日(土)18時配信)