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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 破瓶(一)
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二尺、四尺、七尺——と夜の明けるたび水嵩(みづかさ)は増してゐた。城中いたるところ浸々(シン/\)と濁流が渦巻いて、膨れあがつた馬の屍(かばね)や兵の死骸が芥(あくた)と共に浮いては流されて行く。
「どうしたものだらう?」
城中の兵は、生きた空もなく、次第に居どころを狭められた。しかし呂布は、うろたへ騒ぐ大将たちに、わざと傲語していつた。
「驚くことはない。呂布には名馬赤兎がある。水を渡ることも平地の如しだ。たゞ汝等は、猥(みだ)りに立(たち)騒いで、溺れぬやうに要心すればよい。……なアに、そのうちには大雪風がやつて来て、一夜のうちに、曹操の陣を百尺の下に埋めてしまふだらう」
彼は猶(なほ)、恃(たの)みなきものを恃んで、日夜、暴酒に耽つてゐた。彼の心の一部にある極めて弱い性格が、酔つて現実を忘れることを好むのであつた。
ところが、或る時。
ふと、宿酔から醒めて、呂布は鏡を手に取つた。そして愕然と、鏡の中に見た自分のすがたに嘆声を洩らした。
「噫(あゝ)……いつのまに俺はこんなに老けてしまつたのだらう。髪の色まで灰色になつた。眼のまはりも青黒い」
彼は、身を戦(おのゝ)かして、鏡を抛(なげう)ち、又、独りでかう呻(うめ)いた。
「こいつは不可(いか)ん。まだおれはかう老いぼれる年齢ではない。酒の毒だ。暴酒が肉体を蝕(むしば)むのだ。断然、酒はやめよう!」
ひどく感じたとみえて、忽ち禁酒してしまつた。それはよいが同時に城中の将士に対しても、飲酒を厳禁し、
==酒犯の者は首を刎(はね)ん
といふ法令を出した。
するとこゝに城中の大将の一人侯成の馬が十五匹、一夜に紛失した事件が起つた。調べてみると馬飼の士卒が結託して馬を盗み出し、城外に出て、敵へそれを献じ、敵の恩賞にあづからうと小慾な企てをしてゐたといふことが分つた。
侯成は聞きつけて馬飼の者共を追ひかけ、不埒(フラチ)者(もの)をみなごろしにして、馬もすべて取返して来た。
「よかつた/\」
と、他の大将たちも、賀しあつて、侯成に、
「奢(おご)るべし、祝ふべし」
と、囃(はや)した。
折ふし城中の山から、猪(ゐのこ)を十数匹猟(と)つて来た者があるので、酒倉を開き、猪を料理させて、
「けふは大いに飲まう」
と、なつた。
そこで侯成は酒五瓶と、猪の肥えたのを一匹、部下に担がせて、主君の前にやつて来た。そして告げるに、降人の成敗と、愛馬を取返した事実を以(もつ)てし、
「これも将軍の虎威によるところと、諸大将相賀して、折ふし猪を猟して、いさゝか祝宴をひらいて居ります。どうか御主君にも、御一笑下さいまし」
と、品々をそこにならべて拝伏した。
すると呂布は、勃然と、怒を発して、
「なんだつ、これは」
と、酒瓶(さけがめ)を蹴仆した。
一つの酒瓶が他の酒瓶に当つたので、瓶は腹を破つて、一斛(イツコク)の酒がそこに噴出した。侯成は全身に酒を浴び、強烈な香気は、呂布の怒りをなほ甚だしくさせた。
「おれ自身、酒を断ち、城中にも禁酒の法を出してあるのに、汝等大将たる者が、歓びに事よせて、酒宴をひらくとは何事だ」
呂布は左右の武士に向つて、侯成を斬れと罵つた。
仰天した侍臣の一名が、ほかの大将たちを呼んで来た。諸人は哀訴百拝して、
「助けたまへ」
と、侯成のために命乞(いのちごひ)をしたが、呂布は容易に顔色ををさめなかつた。
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次回 → 破瓶(はへい)(三)(2024年11月15日(金)18時配信)