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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 許田の猟(四)
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その時、関羽は、
「人も無げな曹操の振舞(ふるまひ)。帝をないがしろにするにも程がある!」
と、口にこそ発しなかつたが、怒は心頭に燃えて、胸中の激血は熄(や)みやうもなかつたのである。
無意識に、彼の手は、剣へかゝつてゐた。玄徳は〔はつ〕としたやうに、身を移して、関羽の前に立(たち)塞(ふさ)がつた。そして手をうしろに動かし、眼をもつて、関羽の怒を宥(なだ)めた。
ふと、曹操の眸が、玄徳のはうへうごいた。玄徳は咄嗟に、ニコと笑をふくんでその眼に応へながら、
「いや、お見事でした。丞相(セウジヤウ)の神射には、おそらく及ぶ者はありますまい」
「はゝゝゝ」
曹操は高く打笑つて、
「お褒(ほめ)にあづかつて面(おも)映(は)ゆい。予は武人だが、弓矢の技などは元来得手としないところだ。予の長技は、むしろ三軍を手足の如くうごかし、治にあつては億民を生に安からしめるにある。——さるを奔(はし)る鹿をもたゞ一矢で斃したのは、是(これ)、天子の洪福といふべきか」
と、功を天子の威徳に帰しながら、暗に自己の大なることを自分の口から演舌した。
それのみか、曹操は、忘れたやうに、帝の彫弓金箭を手(た)挟(ばさ)んだまま、天子に返し奉らうともしなかつた。
猟(かり)が終ると、野外に火を焚(た)き、その日、獲たところの鳥獣の肉を焙(あぶ)つて、臣下一統に酒を賜はつたが、何となく公卿百官のあひだには、白けた空気がたゞよつて、そこに一抹の暗影を感じないわけにはゆかなかつた。
やがて、帝には還御となる。
玄徳も洛中に帰つた。その後、彼は一夜ひそかに、関羽を呼んで、
「いつぞやの御猟(みかり)の節、何故(なぜ)、曹操に対して、あのやうな眼(まな)ざしを向けたか。誰も気づかぬ様子であつたからよいが、近頃、其方にも似合はぬ矯激(ケウゲキ)な沙汰ではないか」
と、戒めた。
関羽は、頭を垂れて、神妙に叱りをうけてゐたが、静(しづか)に面(おもて)をあげて、
「ではわが君には、曹操のあの折の態度に、何の感じもお抱きになりませんでしたか」
「そんなこともないが」
「私はむしろ、わが君が、何で私を制止されたか、お心を疑ふほどです。この許昌の都に親しく留まつて以来、眼にふれ耳に聞えるものは、悉(こと/゛\)く曹操の暴戻(バウレイ)なる武権の誇示でないものはありません。彼は決して、王道を衛(まも)る武臣の長者とはいへぬ者です。覇気(ハキ)横溢(ワウイツ)のまま覇道を行はうとする奸雄です。その野心をはや露骨にして、公卿(くげ)百官を始め、十万の将士を前に、上(かみ)を冒(おか)し奉り、上を立ちふさいで、自身が臣下の万歳をうけるなどゝいふ思ひ上がつた態(テイ)を見ては、餘人(ひと)は知らず、関羽は黙止してをられません。……たとへ如何(いか)やうなお咎めをうけるとも、関羽には忍び難(がた)うて、この身がふるへます」
「もつともな事だ……」
玄徳は、うなづいた。幾たびも同感のうなづきを見せた。
「——だが関羽。こゝは深慮すべき秋ではないか。鼠を殺すのに、手近な器物を投(なげ)つけるとする。鼠の価値と、器物の価値とを、考へ合(あは)す必要があらう。われ等、義兄弟(ケウダイ)の生命は、そんな安価なものではない筈だ。もしあの折、仮にそちが目的を仕遂げたところで、彼には十万の兵と無数の大将がひかへてゐる。われ等も共に許田の土と化さねばなるまい。そして又復(また/\)大乱のうちから、次の曹操が現れたら何にもならない事になるではないか。——張飛なら知らぬこと、其方までがそんな短慮では困る。夢、ことばの端にも、そんな激色を現はしてはならぬ」
諄々(ジユン/\)と説かれて、関羽はかへすことばもなかつた。
しかし彼は、独り星夜の外に出ると、長嗟(チヤウサ)して、天へ語つた。
「今日、あの奸雄を刺さなければ、やがて明日(あした)の禍(わざはひ)となるは必定だ。誓つて云ふ!天下の乱兆は、更に、曹操が生きてゆくほど大にならう!」
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次回 → 秘勅を縫ふ(一)(2024年11月28日(木)18時配信)
今回までの執筆分が14冊単行本の第4巻「大江の巻」となります。次回からは第5巻「臣道の巻」に入ります。