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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 許田の猟(三)
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御猟(みかり)の供は十万餘騎と称(とな)へられた。騎馬歩卒などの大列は、蜿々(ヱン/\)、宮門から洛内をつらぬき、群星地を流れ、彩雲(サイウン)陽(ひ)を繞(めぐ)つて、街々には貴賤老幼が、蒸されるばかりに蝟集(ヰシフ)してゐた。
「あれが、劉皇叔よ」
などゝ、警蹕(ケイヒツ)のあひだにも、囁(さゝや)く声が流れる。
この日。
曹操は、「爪黄飛電(サウワウヒデン)」と名づける名馬に跨がつて、狩(かり)装束(セウゾク)も華やかに、〔ひた〕と天子のお側(そば)に寄添つてゐた。
その曹操が前後には、彼の股肱とする大将旗下が各々武器をたすさへ、豪歩(ガウホ)簇擁(ゾクヨウ)、尺地も餘さぬばかり続いて行くので、朝廷の公卿百官は、帝の側近くに従ふこともできなかつた。はるか後(うしろ)の方から甚だ手持(てもち)不沙汰な顔を揃へて歩いてゐた。
かくて御料の猟場(かりば)に着くと、許田二百餘里(支那里)のあひだを、十万の勢子(せこ)でかこみ、天子は、彫弓金鈚箭を御手に、駒を野に立てられ、玄徳を顧みて宣(のたま)うた。
「皇叔よ。今日の猟(かり)を、朕のなぐさみと思ふな。朕は、皇叔が楽しんでくれゝば共に欣(うれ)しからう」
玄徳は、恐懼して、
「畏れ多いことを」
と、馬上ながら、鞍の前輪に顔のつくばかり、拝伏した。
ところへ、勢子の喊声(カンセイ)に趁(お)はれて、一匹の兎が、草の波を跳び越えて来た。
帝は、眼ばやく、
「獲物ぞ。あれ射て猟(と)れ」
と、早口に云はれた。
「はつ」
と、玄徳は馬を跳ばして、逃げる兎と、併行しながら、弓に矢をつがへてぴゆつんと放した。
白兎は、矢を負つて、草の根にころがつた。帝は、その日、朝門を出御ある折から、始終、鬱(ふさ)ぎがちであつた御眉を、初めてひらいて、
「見事」
と、玄徳の手際を賞し、
「彼方の丘を巡らうか。皇叔、朕がそばを離れないでくれよ」
と堤の方へ、先に駒をすゝめて行かれた。
すると、一叢(ひとむら)の荊棘(ケイキヨク)の中から、不意に又、一頭の鹿が躍り出した。帝は手の彫弓に金鈚箭をつがへて、〔はツし〕と射られたが、矢は鹿の角を掠(かす)めて外(そ)れた。
「あな惜しや」
二度、三度まで、矢をつゞけられたが、中(あた)らなかつた。
鹿は、堤から下へ逃げて行つたが、勢子の声に愕(おどろ)いて、又跳ね上つて来た。
「曹操、曹操つ。それ射止めてよ」
帝が急(せ)き込んで叫ばれると、曹操は〔つと〕馳(かけ)寄つて、帝の御手から弓矢を取り、それを番(つが)へながら爪黄馬を走らすかと見る間に、ぶんと弦(つる)鳴(なり)させて射放つた。
金鈚箭は飛んで鹿の背に深く刺さり、鹿は箭(や)を負つたまゝ百間ばかり奔(はし)つて倒れた。
公卿百官を始め、下、将校歩卒にゐたる迄(まで)、金鈚箭の立つた獲物を見て、いづれも、帝の射給うたものとばかり思ひこんで、異口同音に万歳を唱へた。
万歳々々の声は、山野を圧して、暫(しば)し鳴(なり)も止まないでゐると、そこへ曹操が馬を飛ばして来て、
「射たるは、我なり!」
と、帝の御前に立(たち)塞(ふさ)がつた。
そして彫弓金鈚箭を諸手にさしあげ、群臣の万歳を、あたかも自身に受けるやうな態度を取つた。
はつと、諸人みな色を失ひ興をさましてしまつたが、特に、玄徳のうしろにゐた関羽の如きは、眼(まなこ)を張り、眉をあげて、曹操のほうを〔くわつ〕とにらめつけてゐた。
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次回 → 許田の猟(五)(2024年11月27日(水)18時配信)