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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 許田の猟(二)
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一日。
相府の一閣に、程昱が来て、曹操とふたりきりで、密談してゐた。
程昱は、野心勃々たる彼が腹心のひとりである。しきりに天下の事を論じたあげく、
「丞相。もはや今日は、為すべき事を為す時ではありませんか。何故、猶豫しをられるのですか」
と、難詰(なじ)つた。
曹操は、そら嘯(うそぶ)いて、
「為す事とは?」
と、わざと反問した。
「覇道の改革を決行することです。——王道の政治(まつり)廃れてもはや久しく、天下は紊(みだ)れ民心は飽いてゐます。覇道独裁の強権が布(し)かれることを世間は待望してゐると思ひます」
程昱の云ふ裏には、明(あきら)かに朝廷無視の叛意がふくまれてゐる。——が、曹操は、それを否定もせず、躾(たしな)めもしなかつた。
「まだ、早い」
さう云つただけである。
程昱がかさねて、
「併(しか)し、今、呂布も亡んで、天下は震動しています。雄略胆才もみな去就に迷ひ、紛乱昏迷の実状です。この際、丞相が断乎として、覇道を行へば……」
と、なほ云ひかけると、曹操は細い鳳眼を刮(クワツ)とひらいて、
「滅多なことを口外するな、朝廷にはまだ/\股肱の旧臣も多い。機も熟さぬうち事を行へば自ら害を招くやうな結果を見よう」
と、声を以て、彼の声を抑へつけた。
けれど曹操の胸に、すでにこの時、人臣の野望以上のものが、芽を萌(きざ)してゐたことは争へぬ事実だつた。——彼は、程昱に口を緘(つぐ)ませて、自分もしばらく沈思してゐたが、やがて血色の醒(さめ)た面をあげ、常の如き細い眸に熒々(ケイ/\)たる光をひそめながら独りつぶやいた。
「さうだ。こゝ久しく戦に忙しく、狩猟に出たこともない。天子を許田の猟に請じて、ひとつ諸人の向背(カウハイ)を試してみよう」
急に、彼は思ひ立つた。——即ち犬や鷹の用意をして、兵を城外に調(とゝの)へ、自身宮中に入つて、帝へ奏上した。
「許田へ行幸(みゆき)あつて、親しく臣等と共に狩猟をなされては如何ですか。清澄な好日つゞきで、野外の大気も一しほですが」
帝は、お顔を振つて、
「猟へ出よとか。田猟は聖人の楽しみとせぬところ。朕も、それ故に、猟は好まぬ」
「いや、聖人は猟をしないかもしれませんが、いにしへの帝王は、春は肥馬強兵を閲(み)、夏は耕苗を巡視し、秋は湖船を泛(うか)べ、冬は狩猟し、四時郊外に出て、民土の風に親しみ、且(かつ)は武威を宮外に示したものです。畏(おそ)れながら、常々、深宮にのみ御座あつては、陛下の御健康もいかゞかと、臣等もひそかに案じられてなりません。——旁々(かた/゛\)、天下甚だ多事の折でもあり、陛下のみならず公卿(くげ)たちも、稀(まれ)には、大気に触れ、心身を鍛へ、宏濶(クワウクワツ)な気を養ふことが刻下の急務かと考へられますが」
帝は、拒むお言葉を知らなかつた。曹操の実力と強い性格とは、形や言葉でなく、何とはなしに帝を威圧してゐた。
「……では、いつか行かう」
お気のすゝまない容子(ヨウス)ながら、帝は、行幸を約束された。何ぞ知らん、すでに兵車の用意は先に出来てゐたのである。帝は、曹操の我意に、人知れず、眉を震はせられたが、ぜひなく、
「さらば、劉皇叔も、供して参れ」
と、遽(にはか)に詔(みことのり)して、御手(みて)に彫弓(テウキウ)、金鈚箭(キンヒセン)をたづさへ、逍遥馬(セウエウバ)に召されて宮門を出られた。
今朝方から、曹操の兵が城外に夥(おびたゞ)しく禁門の出入も何となく常と違ふので、早くから衛府に詰てゐた玄徳は、それと見るや、自身、逍遥馬の口輪を把(と)つて、帝のお供に従つた。
関羽、張飛、その餘の面々も、弓をたばさみ、戟(ほこ)を擁し、玄徳と共に、扈従(コジユウ)の列に加はつた。
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次回 → 許田の猟(四)(2024年11月26日(火)18時配信)