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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 許田の猟(一)
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漢家代々の系譜に照らしてみると、玄徳が、景帝の第七子の裔(すゑ)であることは明(あきら)かになつた。
つまり景帝の第七子中山靖王の裔(エイ)は、地方官として朝廷を出、以後数代は地方の豪族として栄えてゐたが、諸国の治乱興亡のあひだに、いつか家門を失ひ、土民に流落して、劉玄徳の両親の代には、たうとう沓売(くつうり)や蓆織(むしろおり)を生業(なりはひ)として辛くも露命をつなぐまでに落(おち)魄(ぶ)れ果てゝゐたのであつた。
「世譜(セフ)に依れば、正しく、朕の皇叔(コウシユク)にあたることになる。——知らなかつた。実に今日まで、夢にも知らなかつた。朕に、玄徳のごとき皇叔があらうとは」
と、帝のおよろこびは一通りでない。御涙さへ流して、邂逅の情を繰返された。
改めて、叔(をぢ)甥(をひ)の名乗りをなし、帝は慇懃礼(インギンレイ)をとつて、玄徳を便殿へ請じられた。そして曹操も交へて酒宴を賜はつた。
帝はいつになく杯を重ねられ、龍顔は華やかに染められた。かういふ御気色はめづらしい事と侍側の人々も思つた。——知らず、玄徳を見て、帝のお胸に、何(ど)んな灯が点(とも)つたであらうか。
こゝ許昌の都に、朝廷を定められて以来、本来ならば、王道の隆昌と漢家の復古を、万民と共に、祝福して、帝の御気色をうるはしくなければならないのに、侍従の人々が見るところでは、さはなくて、帝にはむしろ怏々(ワウ/\)と何か常に楽しまぬ御容子に察しられた。一日とて、憂暗なお眸(ひとみ)の清々と晴れてゐたことはない。
「それなのに、今日ばかりは、何といふ明るい御微笑だらう?」
と侍従たちにも怪しまれるほど、その日の宴は、帝にも心から御愉快さうであつた。
帝の特旨に依つて、玄徳は、左将軍(サシヤウグン)宜城(ギジヤウ)亭侯に封ぜられた。
又、それ以来、朝野の人々も、玄徳をよぶのに「劉皇叔」と敬称した。
——が、茲(こゝ)に、当然、彼の擡頭(タイトウ)を餘りよろこばない一部の気運も醸されてきた。
それは、亟相府(ママ)にあつて、軍力政権ふたつながら把握してゐる曹操が股肱——荀彧などの諸大将だつた。
「承れば、天子には、玄徳を尊んで、叔父となされ、御信任も並ならぬものがあるとか。……将来、丞相の大害と成るを、密かに皆、憂へてゐますが」
と、或る時、荀彧や劉曄が、そつと曹操に関心をうながすと、曹操は打(うち)笑つて、
「余と玄徳とは、兄弟もたゞならぬ間柄だ。何で、余の害になろう」
と、取合はなかつた。
「いや、亟相(ママ)のお心としてはさうでせうが、つら/\玄徳の人物を観るに、まことに、彼は一世の英雄にちがひありません。いつ迄(まで)、亟相(ママ)の下風についてゐるか知れたものではない。親しき仲にも、特に、用心がなくては叶(かな)ひますまい」
劉曄も切に注意した。
曹操は、猶(なほ)、度量の大を示すやうに、笑ひ消して、
「好(よき)も亦(また)、交る事三十年。悪(あし)きも亦、交ること三十年。好友悪友も、根元は、わが心の持(もち)方にあらう」
と、意に介(かけ)る風もなかつた。
そして彼と玄徳との交りは、日を趁(お)ふほど親密の度を加へ、朝に出るにも車を共にし、宴楽するにも、常に席を一つにしてゐた。
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次回 → 許田の猟(三)(2024年11月25日(月)18時配信)
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