ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 白門楼始末(四)
***************************************
都へ還る大軍が、下邳城を立(たち)出で、徐州へかへると、沿道の民は、ちまたに溢れて、曹操以下の将士へ、歓呼を送つた。
その中から、一(ひと)群(むれ)の老民が道に拝跪(ハイキ)しながら進み出て、曹操の馬前に懇願した。
「どうか、劉玄徳様を、太守として、此(この)地(チ)におとゞめ願ひます。呂布の悪政をのがれて、平和に耕田の業や商工の営みができますことは、無上のよろこびでございますが、玄徳様がこの国を去るのではないかと、みなあのやうに悲しんでをりまするで」
曹操は、馬上から答へた。
「案じるな。劉(リウ)吏君(リクン)は、莫大な功労があるので、予と共に都へ上つて、天子へ拝謁し、やがて又、徐州へ帰つて来るであらう」
さう聞くと、沿道の民は、諸声(もろごゑ)あげて、どつと歓び合つた。
ふかく民心の中に根をもつてゐる玄徳の信望に、曹操はふと嫉(ねた)みに似たものを覚えながら、面には莞爾(クワンジ)と笑(ゑみ)をたゝへながら、
「劉吏君。このやうな領民は、子のやうに可愛いゝだらうな。天子に拝をすまされたら、早く帰つて、元の如く徐州を平和に治めたまへ」
と、振向いて云つた。
——日を経て。
三軍は許都に凱旋した。
曹操は、例に依つて、功ある武士に恩賞をわかち、都民には三日の祝祭を行はせた。朝門(テウモン)街角(ガイカク)ともその数日は、挙げてよろこびの声に賑はつた。
玄徳の旅舎は丞相府のひだりに定められた。特に一館を彼のために与へて、曹操は礼遇の意を示した。
のみならず、翌日、朝服に改めて参内するにも、玄徳を誘つて、ひとつ車に乗つて出かけた。
市民は軒ごとに、香を焚(た)いて道を浄め、ふたりの車へ拝舞(ハイブ)した。
そして、ひそかに、
「これは又、異例なことだ」
と、眼をみはつた。
禁中へ伺候すると、帝は、階下遠く地に拝伏してゐる玄徳に対し、特に昇殿をゆるされて、何かと、勅問のあつて後、更に、かう訊ねられた。
「其方の先祖は、抑(そも)、何地(いづち)の如何(いか)なるものであるか」
「……はい」
玄徳は、感泣のあまり、しばしは胸がつまつて、俯(うつ)向(む)いてゐた。——故郷楼桑村の茅屋(あばらや)に、蓆を織つて、老母と共に、貧しい日をしのいでゐた一家の姿が、ふと熱い瞼の裡(うち)に憶ひ出されたのであらう。
帝は、彼の涙をながめて、怪しまれながら、ふたゝび下問された。
「先祖のことを問ふに、何故(なにゆゑ)そちは涙ぐむのか」
「——さればに御座ります」
玄徳は襟を正し、謹んでそれに答へた。
「いま、御勅問に接し、おぼえず感傷の意(こゝろ)をうごかしました。——といふ仔細は、臣が祖先は中山靖王の後胤(コウイン)、景帝の玄孫にあたり、劉雄が孫、劉弘の子こそ、不肖玄徳でありまする。中興の祖劉貞(リウテイ)は、ひとたびは、涿県の陸城(リクジヤウ)亭侯(テイコウ)に封ぜられましたが、家運つたなく、以後流落して、臣の代にいたりましては、更に、祖先の名を辱しめるのみであります。……それ故、身のふがひなさと、勅問の忝(かたじけ)なさに思はず落涙を催した次第でありまする。醜(みぐる)しき態をおゆるし下し措かれますやうに」
帝は、驚きの眼(まなこ)をみはつて、
「では、わが漢室の一族ではないか」
と、急に朝廷の系譜を取(とり)よせられ、宗正郷(ソウセイキヤウ)(ママ)をして、それを読(よみ)上げさせた。
漢ノ景帝、十四子ヲ生ム。乃(スナハ)チ
中山靖王劉勝。——勝。陸城亭侯劉貞ヲ生
ム。貞。沛(ハイ)侯劉昂(リウカウ)ヲ
生ム。昂。漳(シヤウ)侯劉祿(リウロク)
ヲ生ム。祿。沂水(キスヰ)侯劉恋(リウ
レン)ヲ生ム。恋。欽陽(キンヨウ)侯劉
英(リウエイ)ヲ生ム。英……。
朗々と、わが代々の先祖の名が耳を搏(う)つてくる。
——その末裔(すゑ)の末裔(すゑ)に、今、我なるものが、此処にあるのかと思ふと、玄徳は体ぢうの血が自分のものでないやうに熱くなつた。
***************************************
次回 → 許田の猟(二)(2024年11月22日(金)18時配信)