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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 白門楼始末(三)
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やがて、陳宮は、面をあげて、曹操の人情へ、訴ふる如く云つた。
「人の道として、幼少からわれも聴く。さだめし、足下も学びつらん。——天下ヲ治(をさ)ムル者ハ人ノ親ヲ殺サズ——と。老母の存亡は、たゞ足下の胸にある事。いかやうとも為し給へ」
「老母のほかに、御辺には妻子もあらう。死後、妻子の行末(ゆくすゑ)は如何(いか)に思ふか」
「思うても、是非ない事、何も思はぬ。——が、我聞く、天下ニ仁政ヲ施スモノハ人ノ祭祀(まつり)ヲ絶(た)タズ——と」
「……」
曹操は、何とかして、陳宮を助けたいと思つてゐた。
——と云ふよりは、殺すに忍びなかつたのである。
留恋の私情と、裁く者の法人的な意思とが今、しきりと彼の心のうちで闘つてゐた。——陳宮はその顔いろを察して、
「無用な問はもう止め給へ。願はくば、速(すみやか)に軍法にてらして、陳宮に誅刀を加へられよ。——これ以上、生くるは辱(はぢ)のみだ」
云ひ捨てゝ決然とそこから起ち上つた。そして、階下の一方にうづくまつてゐる捕虜(とりこ)の呂布へ、冷然と一眄(イチベン)を与へると、自身、白門楼の長い石段を降つて、——下なる首の座に坐つた。
その後姿(うしろすがた)に、
「噫(あゝ)——」
と、曹操は、階上の廊に立ち上がつて、しきりと涙をながしてゐた。諸人もみな伸び上つて、白門楼下の刑場を見まもつた。
陳宮は、死の莚(むしろ)にすわつて、黙然と首をのべてゐたが、ふと、薄曇りの空を啼き渡る二、三羽の鴻(コウ)の影に面(おもて)をあげて、静かに、刑吏の戟を振り向き、
「もう、よろしいか」
と、あべこべに促した。
一閃の刑刀は下つた。
頸骨(ケイコツ)が戞(カツ)と鳴つて、噴血の下、首は四尺も飛んだ。
曹操は、さつと酒の醒めたやうに、
「次は、呂布の番だ。呂布を成敗しろ!」
と命を下した。すると呂布は急に、大声でわめき出した。
「亟相(ママ)、曹亟相。もう閣下の患とする呂布はかくの如く、降伏して、除かれてゐるではないか。この上は、われを助けて、騎将とし、天下の事に用ひれば、四方を定める力ともならうに。——噫(あゝ)、何で無用に、殺さうとするか。助け給へ。呂布はすでに、心から服してゐる」
曹操は、横を向いて、
「劉備どの。彼の哀訴を、聞(きゝ)届けてやつたものだらうか、それとも、断罪にしたものだらうか」
と、小声で訊いた。
玄徳は、是とも非ともいはなかつた。たゞかう答へた。
「さあ、その儀は、如何したものでせうか。こゝ今日、思ひ起されるのは、彼がむかし、養父の丁建陽を殺害して、董卓に降つて行きながら、又その董卓を裏切つて、洛陽にあの大乱を醸した事などですが……」
呂布は、小耳にはさむと、土気色に顔を変じて、
「だまれつ。兎(うさぎ)耳児(みゝ)の悪人め。いつか俺が、轅門(エンモン)の戟を射て助けた恩を忘れたかつ」
と、睨みつけた。
「刑吏共。早その首を縊(しめ)てしまへ」
曹操の一令に、執行の役人たちは、縄を持つて、呂布のそばへ寄つた。呂布は暴れて、容易に彼等の手にかゝらなかつたが、遂に、遮二無二抑へつけられた儘(まゝ)、その場で縊殺(イサツ)されてしまつた。
張遼にも、当然、斬られる番が迫つて来たが、玄徳は、突如立つて、
「張遼は、下邳城中、たゞ一人の心正しき者です。願はくば、宥(ゆる)したまへ」
と、曹操を拝した。
曹操は、玄徳の乞をいれて、彼を助命したが、張遼は辱(はぢ)て、自ら剣を把(と)つて死なうとした。
「大丈夫たる者が、こんな穢(けが)らはしい場所で、犬死する奴があるか」
と、彼の剣を奪つて止めたのは、かねて彼を知る関羽だつた。
曹操は、平定の事終ると、陳宮の老母と妻子を探し求め、師(いくさ)を収めて、許都へ還つた。
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次回 → 許田(きよでん)の猟(かり)(一)(2024年11月21日(木)18時配信)