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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 煩悩重囲(五)
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寒月は皎(カウ)として、泗水の流れを鏡の如く照り返してゐる。
氷山雪地。風まで白い。
戞(カツ)、戞、戞——
人馬の影が黒く黒く。
張遼、侯成の三千餘騎だつた。呂布を真ん中にして、忍びやかに、下邳の城から立つて行く。
「物見。何事もないか」
一歩々々、薄氷を踏む思ひで進むのだつた。——交々(こも/゛\)に物見が先に走つては、行く手の様子を告げてくる。
「敵の哨兵も、この寒さに、どこへやら潜り込んで、寂(セキ)としてゐます」
との報せに、
「天の与へ」
と、呂布は馬を早めた。
彼の今日ある第一の功労者といへば赤兎馬であらう。その赤兎馬もいよ/\健在に、こよひも彼を螺鈿(ラデン)の鞍上(アンジヤウ)に奉じてよく駆けてゆく。
呂布の姿も、ひとたびこの馬上に仰ぎ直すと、日頃の彼とは、人間が変つたやうに、偉(おほ)きく見えるのも不思議だつた。
雄姿——そのものといへる。無敵な威風は真に四辺(あたり)を払ふ。
さるにても、偉大なる煩悩将軍ではある。彼の如き鬼傑でも、わが娘(こ)への愛には、この三千餘騎を具しても猶(なほ)、敵の哨兵の眼さへ恐い。白(ハク)皚々(ガイ/\)の天地をよぎる一羽の鴻(コウ)の影にさへ胸がとゞろく。
「むすめよ。恐くはないぞ」
幾たびも、わが背へ云つた。
綿と錦繡につゝまれた白球(しらたま)の如き十四の処女(をとめ)はかうして父に負はれて城を立つ時から、もう半ば失神してゐた。
「——行末(ゆくすゑ)おまへを皇后に立てゝ下さらうといふ寿春城の袁家へお嫁に行くのだよ」
彼女の母は泣きながら云ひ聞かせたが——これが花嫁の踏まなければならない途中の道なのか?——彼女の白い顔は氷化し、黒い睫毛(まつげ)は上の瞼と下の瞼とを縫ひ合せたやうに凍りついてゐた。
かくて行くこと百餘里。
翌晩も寒林の中に月は怖ろしいほど冴えてゐた。
突として、鼓声(コセイ)鉦雷(シヤウライ)のひゞきが、白夜を震撼した。
数千羽の烏のやうに、寒林を横ぎつてくる慓悍(ヘウカン)なる騎兵があつた。
「あつ、関羽の隊だ!」
張遼は、絶叫して、
「御用心あれ」
と、呂布を振向いた。
間もあらず、
「それツ」
と、馬前はすでに、飛雪に煙る。
びゆツん!
矢風は、身をかすめ、鉄鎧(テツガイ)に中(あた)つて砕けた。こゝかしこに、喚(わめ)き、呻(うめ)きが揚る。そして噴血は黒くぶり撒(ま)かれた。
「——怖いツ!」
呂布は、耳元に、帛(きぬ)を裂くやうな悲鳴を聞いた。
背の処女(をとめ)は、父の体に爪を立てんばかりしがみついた。ひいツ!と身も世もない声を二度ほどあげた。
猛然、赤兎馬は悍気(カンキ)立つ。
——だが、呂布もこよひばかりは、その奔馬を引止めるのに汗をかいた。もし敵の一矢でも、一太刀でも、背の娘にうけたらと、それのみに心を惹(ひ)かれるからであつた。
「関に懸(かゝ)つた敵は凡者(ただもの)ともおぼえぬぞ」
「呂布がゐる!呂布らしい大将が」
取囲む兵は叫ぶ。
もし関羽に出会つたら——と思ふと呂布は身も竦(すく)んで、何の働きもできなかつた。
「無念だが、娘を傷つけては」
空しく、彼は赤兎馬を向け直して、もとの道へと逃げ出した。
途中、屢々(しば/\)、
「曹操の部下徐晃!」
「曹操の旗下許褚、見参(ゲンザン)」
などゝ名乗つて、横道から挑みかゝる強敵に襲はれたが、呂布は眼をふさぎ、たゞ赤兎馬の尻のみ無二無三打(うち)つゞけて、下邳の城まで一息に駆けもどつて来た。
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次回 → 破瓶(はへい)(一)(2024年11月13日(水)18時配信)