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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 煩悩重囲(四)
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その夜、郝萌を生(いけ)虜(ど)つた張飛は、縄尻を取つて、すぐ玄徳の営に出向き、
「こやつは、不敵にも守備の眼を掠(かす)めて、淮南へ往来した特使の大将。ぶつ叩いてお調べください」
と、突き出した。
玄徳は彼の功を賞して、直(たゞち)に取調べたが、郝萌は容易に実を吐かない。
張飛は、もどかしと、傍らの士卒へ、
「拷問にかけろ」
と、声を大にして吩(いひ)咐(つ)けた。
士卒は、仮借(カシヤク)なく、郝萌の背に百鞭を加へた。郝萌は、のがれぬところと思つたか、悲鳴の下から、
「玄徳どの、縄目をゆるめ給へ。申し告げることがある」
と、叫んだ。
一切を自白したので、夜が明けると、玄徳はその趣きを書面にして、曹操の許(もと)へ知らせた。
曹操は、偖(さて)こそと、
「郝萌は首を刎(は)ねよ。往来はいよいよ厳にし、呂布及び呂布の使者など、断じて淮南へ通す勿(なか)れ」
と、返翰(ヘンカン)してきた。
依つて、玄徳は、諸将を集めて、再度、厳重に云ひわたした。
「われ等の任は、今や重い。窮するの極、必ず、呂布はこゝを通るであらう。こゝは淮南への正路、一鼠だに洩らしてはならん。王法ニ親ナシ——怠る者は、軍法に照らし必ず断罪に処すぞ」
「仰せ迄(まで)もない事」
諸将は、命を奉じて、これからは昼夜を分たず、甲冑を脱ぐまいぞ——と、申し合せた。
張飛は、その後で、
「しかし、曹操は、おれが郝萌を生(いけ)虜(ど)つたといふのに、何の恩賞も沙汰して来ない。厳重に、厳重にと、その実、冗談半分に云つてるんぢやないか」
と不用意な言を放つた。
玄徳は、小耳にはさんで、
「数十万の大軍を統(す)べたもふ曹(サウ)丞相(シヤウジヤウ)が、かりそめにも、軍令を口頭の戯れになさらうか。汝こそ、よしなき臆測を軽々しく口にいたすなど、匹夫の根性といふべきである。油断に馴れ、多寡をくくつて、千(セン)歳(ザイ)の汚名を招くな」
と、痛烈に叱られた。
「はい」
張飛は、頰髯(ほゝひげ)を撫(ブ)しながら、ひき退つた。一夜の功労も一言で失してしまつた形である。
一方。——下邳城内では。
許氾(キヨハン)(ママ)、王楷の二使が、
「袁術は、なほ深く疑つて、尋常では、当方の要求を容れる気色もありません。たゞ、御息女との婚儀には、わが子可愛さで、恋々たる未練がありさうですから、何よりも先(ま)づ彼の求むるまゝに御息女を彼地へ送つてやることです。それも迅速に運ばねば、焦眉の急に、意味ないことになりませう」
と、淮南の復命と共に、自分たちの意見をも陳(の)べてゐた。
呂布は、当惑顔に、
「むすめを遣(や)るはいゝが、今この重囲の中、どうして送るか?」
「他ならぬ深窓の御方。それにはどうしても、将軍御みづから送りに立たねばかなひますまい」
「むすめは、わが命につぐものだ。戦の巷はおろか、世の寒風にもあてたことのない白珠(しらたま)だ。よし、おれ自身、淮南の境まで守つて行つてやらう」
「けふは、凶神の辰(とき)にあたる悪日ですから、明日になされたがよろしいでせう。——明夜、戌亥(いぬゐ)の頃を計(はから)つて」
「張遼と侯成を呼べ」
呂布も、遂に心を極(き)めた。二人の大将に、三千餘騎を与へ、軍中に車を曳かせて、淮南へ供して行けと吩(いひ)咐(つ)けた。
けれど、その車に、娘は乗せて出さなかつた。敵の囲みを突破するまでは——と、呂布は自分の背に負つて行つた。何も知らない十四の花嫁は、厚い綿と錦繡(キンシウ)にくるまれて、父の冷たい甲冑の背中に、確固(しつか)と結びつけられてゐたのである。
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次回 → 煩悩重囲(六)(2024年11月12日(火)18時配信)