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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 煩悩攻防戦(二)
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「なに。曹操の陣へ、都から兵糧の運送が続々と下つて来ると。……フム、その途(みち)を中断するのか。よしつ、明日は兵をひいて城を出よう」
忽ち、呂布は肚をきめて、闘志燃ゆるが如き面をして云つたので陳宮も安心して、
「何とぞ、この機を外さず」
と、わざと多言を吐かずに退いた。
その夜、呂布は貂蟬の室へはいつた。見れば、貂蟬は帳(とばり)を垂れ泣き沈んでゐる。どうしたのかと訊くと、海棠(カイダウ)の雨に打たれたやうな瞼を紅に腫らして、
「もう再びこの世で将軍とお会ひできないかと思ふと泣いても/\足りません。行先誰をたのみに世を送りませう」
と、なほ悲しんだ。
「何をいふ。おれはこの通り健在ではないか。この城にはまだ冬を越す兵糧もある。万餘の精兵もゐる」
「いゝえ、妾は夫人から伺ひました。将軍は妾たちをすてゝ、お城をお出になるのでせう」
「勝利を獲るために出て戦ふので何も好んで死地へ行くわけではないよ」
「……でも。……でも案じられます。なぜならばお留守をあづかる陳宮と高順とは、日頃から不和で、将軍がお城にゐなければ、きつと敵に虚をつかれて乱れます」
「二人はそんなに仲が悪いのか」
「わけて陳宮といふ人の肚は分らないと、夫人も憂ひていらつしやいます。——将軍、お娘様もおいとしいではございませんか。夫人(おくさま)や妾(わたし)たちも不愍(フビン)と思うてくださいませ」
貂蟬は、呂布の胸へひたと涙の顔をあてた。
呂布はその肩を軽く打つて、
「あはゝゝゝ」
と強ひて大笑した。
「他愛ないやつだ。泣くな、もう悲しむな。城を出ることは止めにしたよ。おれに画桿(グワカン)の戟と赤兎馬のあるうちは、天下の何人だらうが、この呂布を征服することができるものか。——安心せい、安心せい」
背をなでゝ、倶(とも)に牀(シヤウ)へ憩ひ、侍女に酒を酌ませて、自ら貂蟬の唇へ飲ませてやつた。
次の日。こんどは彼も少し間が悪いとみえて、呂布のはうから陳宮を呼びにやつて、偖(さて)、陳宮の顔を見ると云つた。
「念のためおれが探らせた所では敵の陣へ都から続々兵糧が運送されつゝあるとの報告は、どうも虚報らしいぞ。案ずるところ、おれを城外へ誘ひ出さうとする曹操のわざと云はせてゐる流言にちがひない。そんな策(て)に乗つたら大不覚だ。おれは自重すると極(き)めた。城を出る方針は中止とする」
陳宮は、彼の室を出ると慨然(ガイゼン)と長大息して——
「……あゝ、もはや何をか云はんやだ。われ/\は遂に身を葬る天地もなくなるだらう」
と、力なく呟いた。
それからといふもの、呂布は日夜酒宴に溺れて、帳に秘(かく)れゝば貂蟬と戯れ、家庭にあれば厳氏や娘に守られて、しかも酒が醒(さめ)れば怏々(アウ/\)としてゐた。
「折入つてお目通りねがひたい儀がございまして——」
と、侍臣を通じて許しを得、彼の前に拝をなした二人の家人がある。
許氾(ママ)と、王楷(ワウカイ)だつた。
二人とも陳宮の部下に属してゐる者なので
「何だ」
と、呂布は警戒顔して云ふ。
王楷がまづ云つた。
「聞説(きくならく)——淮南の袁術は、その後も勢力甚ださかんな由であります。将軍には先に、御息女をもつて袁家の息にゆるされ、婚姻の盛儀を挙げんと迄(まで)なされましたのに、なぜ今、疾く使(つかひ)を馳せて、袁術の救をお求めになりませんか。——婚約の事も、まだ破談と極(きま)つたわけでもなし、臣等が参つて篤(トク)と先方に話せば、忽ち諒解を得られようと思はれますが」
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次回 → 煩悩重囲(四)(2024年11月9日(土)18時配信)