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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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呂布には、ほと/\愛想もつきたらしい陳宮であつたが、かりそめにも主君である。その主君から頭を下げて機嫌をとられると、彼は又、忠諫の良臣となつて粉骨砕身せずにはゐられない気持になつた。
「良計は無きにしも非ずですが」
陳宮も辞を低うして答へた。
「たゞお用ひあるか否かゞ問題です。茲(こゝ)に取るべき一策としては『掎角(キカク)の計(はかりごと)』しかありません。将軍は精兵を率ゐて、城外へ出られ、それがしは城に在つて、相互に呼吸をあはせ、曹操をして、首端の防ぎに苦しませるものであります」
「それを掎角の計といふか」
「さうです。将軍が城外へ出られれば、必ず曹操はその首勢を、将軍へ向けませう。すると、それがしは直ぐ城内からその尾端を叩きます。又、曹操が城の方へ向へば、将軍も転じて、彼の後方を脅(おびや)かし、かくして、掎角の陣形に敵を挟み、彼を屠(ほふ)るの計であります」
「ムム、成程、良計々々。孫子も裸足(はだし)だらう」
呂布は、忽ち、戦意を昂(たか)めて、立ちどころに出城の用意と云ひ出した。
山野に出れば、寒気は殊(こと)に烈(はげ)しからうと想像されるので、将士はみな戦袍の下に綿衣を厚く着こんだ。
呂布も奥へはいつて、妻の厳(ゲン)氏に、肌着や毛皮の胴服など、氷雪を凌(しの)ぐに足る身支度をとゝのへよと吩咐(いひつ)けた。
厳氏は、良人の容子を怪しみながら、
「いつたい、何処(どこ)へお出ましですか」と、たづねた。
呂布は、城を出て戦ふ決意を語つて、
「陳宮といふ男は、実に智謀の嚢(ふくろ)のやうな人間だ。彼の授けた掎角の計をもつてすれば、必勝は疑ひない」
と、慌(あはた)だしく、身に物の具を纏(まと)ひ出した。
すると厳氏は、
「まあ、こゝを他人の手に預けて、城外へ出ると仰せなさいますか」
色を失つた面持(おももち)で、急にさめざめと泣き出した。
そして、猶(なほ)、搔(かき)口(く)説(ど)いて、
「あなたは、後に残る妻子を、可哀さうとも何とも思ひませんか。陳宮の考へださうですが、陳宮の前身を思うてごらんなさい。あれは以前、曹操と主従の約をむすんでゐたのを、途中から変心して、曹操を見捨てゝ奔つた男ではありませんか。——ましてあなたは、その曹操ほども、陳宮を重く用ひては来なかつたでせう」
「…………」
妻が真剣に泣いて訴へはじめたので、呂布は途方に暮れた顔してゐた。
「……ですもの、陳宮が、どうして曹操以上に、あなたへ忠義を励みませう。陳宮に城を預けたら、どんな変心を抱くかしれたものではありません。……さうなつたら、妾(わたし)たち妻子は、又いつの日、あなたに会ふことができませう」
綿々と、恨みつらみを並べた。
呂布は、着かけてゐた毛皮の鎧下(よろひした)を脱ぎすてゝ、
「ばか、泣くな。戦の門出に、涙は不吉だ。明日にしよう、明日に」
急に、さう云つて、
「娘は何をしてゐるか」
と妻と共に、娘たちのゐる部屋へ入つて行つた。
明日になつても呂布は立つ気色もない。二日も過ぎ、三日も過ぎた。
陳宮が又、顔を見せた。
「将軍。——一日も早く城を出て備へにおかゝりなさらないと、曹操の大兵は、刻々と城の四囲に勢を張るばかりですぞ」
「や、陳宮か、おれもさう思ふが、やはり遠く出て戦ふよりは、城に居て堅く守るが利といふ気もするが」
「いや、機はまだ遅くありません。この日頃、許都の方からおびたゞしい兵糧が曹操の陣地へ運送されて来るといふ情報が入りました。将軍が兵をひいて城外へ出られゝば、その糧道も併せて断つことが出来る。——これ一挙両得です。敵にとつては致命的な打撃となること、いふまでもありません」
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次回 → 煩悩重囲(三)(2024年11月8日(金)18時配信)