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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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呂布は、櫓(やぐら)に現れて
「われを呼ぶは何者か」
と、わざと云つた。
泗水の流れを隔てゝ、曹操の声は水に谺(こだま)して聞えて来た。
「君を呼ぶ者は君の好(よ)き敵である許都の丞相曹操だ。——然(しか)し、君と我と、本来なんの仇があらう。予はたゞ御辺が袁術と婚姻を結ぶと聞いて、攻(せめ)下つて来た迄(まで)である。なぜならば、袁術は皇帝を僭称(センシヤウ)して、天下を紊(みだ)す叛逆の賊である。かくれもない天下の敵である」
「…………」
呂布は、沈黙してゐた。
河水をわたる風は白く、蕭々と鳴るは盧狄(ロテキ)、翩々(ヘン/\)とはためくは両陣の旌旗(セイキ)。——その間一すぢの矢も飛ばなかつた。
「予は信じる。君は正邪の見極めもつかないほど愚な将軍ではないことを。——今もし戈(ほこ)を伏せて、この曹操に従ふならば、予は予の命を賭しても、天子に奏して君の封土(ホウド)と名誉とを必ず確保しておみせしよう」
「……」
「それに反し、この際、迷妄に囚(とら)はれて降らず、君の城郭もあへなく陥落する日となつては、もう何事も遅い、君の一族妻子も、一人として生くることは、不可能だらう。のみならず、百世の後まで、悪名を泗水に流すに極(きま)つてゐる。よくよく賢慮し給へ」
呂布は動かされた。それまで黙然と聞いてゐたが、やにはに手を振上げ、
「丞相(シヤウジヤウ)々々。しばらくの間、呂布に時刻の猶豫をかし給へ。城中の者とよく商議して、降使をつかはすことにするから」
傍にゐた陳宮は、意外な呂布の返辞に愕然として跳び上り、
「な、なにを〔ばか〕なことを仰つしやるかつ」
と、主君の口をふ塞(ふさ)ぐやうに、突然、横あひから大音声で曹操へ云ひ返した。
「やよ曹賊。汝は、若年の頃から口先で人をだます達人だが、この陳宮がをる以上、わが主君だけは欺(あざむ)かれんぞ。この寒風に面皮を曝(さら)して、無用の舌の根をうごかさずと、早々退散しろ」
言葉の終つた刹那、陳宮の手に引きしぼられてゐた弓が〔ぷん〕と弦鳴(つるなり)を放ち、矢は曹操の盔(かぶと)の眉廂(まびさし)に中(あ)たつて刎(は)ね折れた。
曹操は、かつと眦(まなじり)をあげて、
「陳宮ツ、忘るゝな、誓つて汝の首を、予の土足に踏んで、今の答へをなすぞ」
そして左右の二十騎に向つて、即時、総攻撃にうつれと峻烈に命じた。
櫓の上から呂布はあわてゝ、
「待ちたまへ、曹丞相。今の放言は、陳宮の一存で、此方の心ではない。それがしは必ず商議の上城を出て、降るであらう」
陳宮は、弓を投げつけて、ほとんど喧嘩(ケンクワ)面(づら)になつて云つた。
「この期(ご)になつて、なんたる弱音をはき給ふことか。曹操の人間は御存じであらうに。——今、彼の甘言にたばかられて、降伏したが最後、二度とこの首はつながりませんぞ」
「だまれつ、やかましいつ。汝一存を以(もつ)て何を吠ゆるか」
呂布も躍起となつて、云ひ争ひ、果ては剣に手をかけて、陳宮を成敗せんと息巻いた。
敵の目からも見ゆる櫓のうへである。主従の喧嘩は醜態だ。高順や張遼たちは、見るに見かねて、二人を押(おし)隔て、
「まあ、御堪忍ください。陳宮も決して自分のために、面(おもて)を冒(おか)して云つてゐるわけではなし、皆、忠義の迸(ほとばし)りです。元来、忠諫の士です。今、唯一つのお味方を失つては、決していゝ事はありますまい」
呂布も漸く悪酔(アクスヰ)のさめたやうにほつと大息を肩でついて、
「いや、ゆるせ陳宮。今のは戯れだ。——それより何か良計があるなら惜(をし)まず俺に教へてくれい」
と、云ひ直した。
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次回 → 煩悩攻防戦(二)(2024年11月7日(木)18時配信)