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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 健啖天下一(六)
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おそらく天下第一の健啖家は、夏侯惇であらう。
——後には、人々の話題を振(にぎ)はし、夏侯惇もよく笑ひばなしに語つたが、わが眼を喰つて血戦したその場合の彼の心は、悲壮とも壮絶とも云ひやうはない。
眼球を抜かれた一眼の窪(くぼ)からあふれ出る鮮血は止まらない。もちろん激痛も甚だしかつた。
「今はこれまで」
と、彼も最期を思つたほど、敵の中に囲まれてゐたのである。
その重囲を、一角から斬(きり)くづして、彼の身を救つて出たのは、彼の弟夏侯淵であつた。
夏侯淵は、兄を助けて、
「ひとまづ退(ひ)きませう」
味方の李典、呂虔の陣へ走りこんで一手となつた。
勢にのつた呂布軍は、全線にわたつて、攻勢を示し、
「この図を外すな」
と、呂布自身、馬をとばして、押(おし)進んで来た。
李典、呂虔の兵は、済北まで引(ひき)しりぞいた。呂布は、全戦場の形勢から、
「勝機は今!」
と、確信したものか、奔濤の勢いをそのまゝ揚げて、直(たゞち)に、小沛まで詰寄せて来た。
こゝには、関羽、張飛が、
「御座んなれ」
と、備へてゐた。
敵を代へて、呂布は、新手の玄徳軍と猛戦を開始した。
高順、張遼の二軍は、張飛の備へに打つてかゝり、呂布自身は、関羽に当つた。
乱箭(ランセン)の交換に、雲は叫び、肉闘剣戟の接戦となつて、鼓(コ)は裂け、旗は折れ、天地は震撼した。
だが、何といつても、玄徳の小沛勢は小勢である。張飛、関羽がいかに勇なりといへど、呂布の大軍には抗し得なかつた。
当然、敗退した。
城中へ城中へと先を争つて逃げてゆく、その小呂勢(ママ)のなかに、玄徳のうしろ姿を見つけた呂布は、
「大耳児(ダイジジ)。待て」
と、呼びかけた。
玄徳は生れつき耳が大きかつた。兎耳と綽名(あだな)されてゐた。それ故に呂布はさう叫んだのである。
玄徳は、その声に、
「追ひつかれては——」
と、戦慄した。
けふの呂布の血相では、所詮、口さきで彼の戟を避けることは出来さうもない。
「逃げるに如(し)くなし」
玄徳は、うしろも見ず、馬に鞭打つた。
ところが、餘りに、追迫されたので、彼が、城門の濠橋(ゴウケウ)まで来てみると、もう橋はあげてある。
「玄徳なるぞ、吊橋を下ろせ」
城中の兵は、彼の姿にあわてて、内から門をひらき、橋を渡した。——が、玄徳が急いで逃げ渡らうとするまでに、呂布も、疾風のごとく、共に橋をこえてゐた。
「あれよ!呂布が」
と、味方の兵は、弓に矢をつがへたが、何分、主人の玄徳と、呂布の体が殆(ほとん)ど一体になつて絡み合つたまゝ、だつーと城門内まで馳けこんでしまつたので、
「もし、主人を射ては」
と、手もすくんで、遂に一矢も放つことができなかつた。
もちろん呂布の前には、忽ち、十騎二十騎と立(たち)塞(ふさ)がつたが、彼の大戟(おほほこ)が呼ぶ血風の虹をいよ/\壮絶にするばかりだつた。
その間に。
呂布につづく高順、張遼の軍勢も、またゝくうち橋を渡つて、城門内を埋めてしまひ、楼台城閣は炎を吐き、小沛の小城は今や完全に、彼の蹂躪するところとなつてしまつた。
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次回 → 黒風(こくふう)白雨(びやくう)(一)(2024年10月26日(土)18時配信)