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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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誰もゐないと思つてか、少女は手(た)折(を)つた芙蓉を髪に挿(さ)し、又、声を張りあげて歌つてゐた。
妹是桂花(むすめ・かつらのはな)
香千里(せんりもにほふ)
哥是蜜蜂(をとこ・みつばち)
万里来(ばんりもかよふ)
蜜蜂見花(みつばち・はなみて)
団々転(うよ/\うつる)
花見蜜蜂(はなは・みつばちみて)
朶々開(なよ/\ひらく)
呂布はその声に、後閣の窓から首を出した。
眼をほそめて、娘の歌に聞き恍(と)れてゐる顔つきである。
「…………」
姉は十四、妹は五ツ。
ふたり共、呂布の娘である。
十四の姉の方は、先頃、袁術の息子へ嫁がせる迄(まで)になつて、一夜、盛大な歓宴をひらき、珠簾(ジユレン)の輿(こし)にのせて、淮南の道へと見送つたが、遽(にはか)に、模様が変つた為、兵を派して輿を途中から連れもどし、その儘(まゝ)、元の深窓に封じてしまつた、——あの花嫁御寮なのである。
花嫁はまだ小さい。
国と国の政略も知らない。戦争がどこに起つてゐるかも知らない。父親の胸のうちも、徐州の城の運命も知らない。
たゞ歌つてゐる——そして幼い妹と手をつないでくる/\旋(めぐ)つてゐたが、ふと、父の呂布の顔を、後閣の窓に見たので、
「あら?」
と、顔を紅(あか)らめながら母たちの住んでゐる北苑(ホクヱン)の深房(シンバウ)へ馳けこんでしまつた。
「はゝゝゝ。まだ寔(まこと)に無邪気な姫君でいらつしやいますな」
呂布のそばには、家臣の郝萌(カクホウ)が顔をならべて佇(たゝず)んでゐた。
「む、む。……あのやうにまだ子どもだからな、可憐(いぢら)しいよ」
呂布は腕を拱(く)んだ。——何か娘のことについて、沈吟してゐるふうだつた。
室には郝萌と彼と、たゞ二人きりで、最前から何か密談してゐたところである。
その郝萌は、玄徳から曹操へ宛てた例の返簡が、呂布の手に入つて、こんどの戦端となつた、その日に、
(急ぎ淮南へ参つて、袁術に会ひ、先頃の縁談は、まつたく曹操に邪(さまた)げられて、一旦はお約束に反(そむ)いたものゝ、依然、貴家との婚姻は希(ねが)つてゐるところである——と申して、至急、取(とり)纏(まと)めて来い)
との秘命をうけて、早馬で淮南へ向ひ、つい今し方、袁術の返辞を済(すま)して、これへ帰つて来たものであつた。
急に、婚約の儀を蒸返して、袁術へ、唇歯の交(まじは)りを求める裏には、
(二家姻戚として、二国同盟して、共に、曹操を打破らうではないか)
と、いふ軍事的な意味がもちろん含まれてゐる。
袁術とても、元より息子の嫁の縹緻(きれう)や気〔だて〕などより、重点はそこにあるので、慎重評議の結果、やはり呂布は味方に抱きこみたいが、呂布の変り易い信義にはまだ疑があるとて、
(ともあれ愛娘(アイジヤウ)の身を先に淮南へお送りあるなれば、充分、好意をもつて御返答に及ばう)
といふ、返辞だつた。
要するに、愛娘を先に質子(チシ)として送り、信義を示すならば——という条件なのである。
呂布の胸は今、郝萌からその復命を聞いて迷つてゐた。
「娘を淮南へ送つたものか、何(ど)うしたものか?……」と。
そして、すでに、
「遣(や)らう」
と、肚をきめかけた時、ふと、愛娘(まなむすめ)の歌声が聞えて来たのである。可憐な、そしてまだ無邪気な愛娘のすがたを、苑に見ると、彼はまた気が変つて、
「……いや。花嫁としてやるならばだが、質子として、遠い淮南へ、むすめを遣るほど、呂布もまだ落目(おちめ)になつてをらん。袁術のはうでさう高くとまつてゐるなら、この問題はもつと先の事にしよう。……郝萌、使(つかひ)の役目、大儀だつた。退がつて休息するがいゝ」
と、云つた。そして遂に、袁術へ提携を呼びかけた婚姻政略の蒸返しは、一時、断念してしまつた。
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次回 → 健啖天下一(五)(2024年10月23日(水)18時配信)