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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
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その夜——
彼は、独坐してゐた。
「右すべきか、左すべきか。多年の宿題が迫つてきた」
袁紹といふ大きな存在に対して深い思考をめぐらさうとする時、さすがの彼も眠ることができなかつた。
「恐るゝには足らない」
心の奥では呟いてみる。
しかし、そのそばから、
「侮れない——」
とも、すぐ思ふ。
袁紹と自分とを、一個一個の人間として較べるなら郭嘉が、
(君に十勝あり。袁紹に十敗あり)
と、指を折つて説かれるまでもなく、曹操自身も、
「自分のはうが遙(はるか)に人間は上である」
と、充分自信はもつてゐるが、単にそれだけを強味として対手(あひて)を鵜呑みにしてしまふわけにもゆかなかつた。
袁一門の閥族中には、淮南の袁術のやうな者もゐるし、大国だけに賢士を養ひ、計謀の器(うつは)、智勇の良臣も少(すくな)くない。
それに、何といつても彼は名家の顕門で、いはゞ国の元老にも擬せられる家柄であるが、曹操は一宮内官の子で、しかもその父は早くから郷土に退(ひ)き、その子曹操は少年から村の不良児といはれてゐた者にすぎない。
袁紹が洛陽の都にあつて、軍官の府に重きをなしてゐた頃、曹操はまだやつと城門を見廻る一警吏にすぎなかつた。
袁紹は風雲に追はれて退き、曹操は風雲に乗じて躍進を遂げたが、名門袁紹にはなほ隠然として保守派の支持があるが、新進曹操には、彼に忠誠なる腹心の部下をのぞく以外は嫉視反感あるのみだつた。
天下はまだ曹操の現在の位置を目して、
「お手盛りの丞相」
と、蔭口をきいてゐた。その武力には懼(おそ)れても、その威に対しては心服してゐないのである。
さういふ微妙な人心に晦(くら)い曹操ではない。彼はなほ自分の成功に対して多分に不満であり不安であつた。
敵は武力で討つことはできるが、徳望は武力で嬴(か)ち得ないことは知つてゐる。
かういふ際、
「袁紹と事を構へたら?」
と、そこに多分な迷ひが起(おこ)つてくる。
今、地理的に。
この許都を中心として西は荊州、襄陽の劉表、張繡を見ても、東の袁術、北の袁紹の力をながめても、殆(ほとん)ど四方連環の敵であつて、安心のできる一方すら見出せない。
「——だが、この連環のなかに凝(じつ)としてゐたら、結局、自分は丞相といふ名だけを持つて、窒息してしまふ運命に立(たち)到(いた)るであらう。自分の位置は、風雲に拠つて生れたのであるから、天下の全土を完全に威服させてしまふ迄(まで)は、寸時も生々躍動の前進を怠つてはならない。打開を休(や)めてはならない。旧態の何物をも、ゆるがせに見残しておいてはならない」
曹操の意志は、大きな決断へ近づきだした。
「さうだ。——打開にはいつも危険が伴ふのはあたりまへだ。——袁紹何ものぞ。すべて旧(ふる)い物は新しい生命と入れ代るは自然の法則である。おれは新人だ。彼は旧勢力の代表者でしかない。よし!やらう」
肚はすわつた。
彼はさう決意して眠りについたが、翌日になると、猶(なほ)、もう一応自己の信念を慥(たしか)めてみたくなつたか、丞府の吏に、
「荀彧を呼びにやれ」
と、いひつけた。
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次回 → 北客(四)(2024年10月16日(水)18時配信)