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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 北客(一)
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今しがた禁裏(キンリ)を退出した曹操は、丞相府へもどつて、ひと休みしてゐた。
そこへ郭嘉が、
「お取次いたします」
と、牀下(シヤウカ)に拝礼した。
「なんだ。書簡か」
「はい、袁紹の使(つかひ)が、遙々(はる/゛\)、都下の駅館に到着いたして、丞相にこれを御披露ねがひたいとのことで」
「——袁紹から?」
無造作に披(ひら)いて、曹操は読み下してゐたが、秋の日に萱(かや)が鳴るやうに、から/\と咲(わら)つた。
「虫のいゝ交渉だ。——先ごろ、この曹操が都をあけてゐた折はあはよくば洛内に軍を進めんと窺(うかゞ)つたりしながら、この書面を見れば、北平の公孫瓚と国境の争ひを起したに依つて、兵糧不足し、軍兵も足りないから、合力してくれまいか——といふ申入れだ。しかも、文辞傲慢、この曹操を都の番人とでも心得てをるらしい」
不快となると、はつきり不快な色を面上に漲(みなぎ)らせる。それでも足りないやうに、曹操は書簡を破り棄てゝしまつた。
そして、郭嘉に向つて、猶(なほ)、餘憤をもらした。
「袁紹の尊傲(ソンゴウ)無礼はこの事ばかりではない。日ごろ帝の御名(おんな)をもつて政務の文書を交(かは)しても、常に不遜の辞句を用ひ、予を一吏事のごとく見なしてをる。——いつかはその傲(おご)れる鼻をへし折つてくれんものと、じつと隠忍してをるが如何(いかん)せん、冀州一円にわたる彼の旧勢力も、まだなか/\……自己の力の不足へをかりみ(「をかへりみ」の誤植)、独り嘆じてゐる程なのに、この上北平を攻(せめ)るのだから兵力を借(か)せ、食糧を借せとは、どこまで予を与(くみ)し易しと思つてゐるのか底の知れぬ横着者ではある」
「……丞相」
郭嘉は彼の激色がうすらぐのを待つて静に云つた。
「童子も知つてゐる事を改めて申すやうですが、むかし漢の高祖が項羽を征服した例を見るに、高祖は決して項羽よりも強いのではありません。強さにかけては項羽のはうが遙(はるか)に上でせう。にもかゝはらず、高祖に亡されたのは勇を恃(たの)んで、智を軽(かろ)んじたせゐです。それと、高祖の隠忍がよく最後の勝(かち)を制したものと思ひます」
「そのとほりだ」
「わたくし如きが、丞相を批評しては、罪死に値(あたひ)しますが、忌憚(キタン)なく申しあげれば、袁紹の人物と丞相とを比較してみますと、わが君には十勝の特長があり、袁紹には十敗の缺点があります」
と云つて、郭嘉は指を折りながら、両者の得失をかぞへあげた。
一……袁紹は時勢を知らない。
その思想は、保守的とい
ふより逆行している。
が——君は。時代の勢いに
順(したが)ひ、革新の
気に富む。
二……袁紹は繁文縟礼(ハンブン
ジヨクレイ)、事大主義で
儀礼ばかり尊ぶ。
が——君は。自然で敏速で、
民衆に触れてゐる。
三……袁紹は寛大のみを仁政だと
思つてゐる。故に、民は寛
に狎(な)れる。
が——君は。峻厳で、賞罰
明(あきら)かである。
民は恐れるが、同時に大き
な歓びも持つ。
四……袁紹は鷹揚(オウヤウ)だが
内実は小心で人を疑ふ。
又、肉親の者を重用しすぎる。
が——君は。親疎のへだてなく人
に接すること簡で、明察鋭い。
だから疑ひもない。
五……袁紹は謀事(はかりごと)をこの
むが、決断がないので常に惑ふ。
が——君は。臨機明敏である。
六……袁紹は、自分が名門なので、名士
や虚名をよろこぶ。
が——君は。真の人材を愛する。
「もうよせ」
曹操は、笑ひながら急に手を振つた。
「さう此身(このみ)の美点ばかり聞かせると、予も袁紹になる惧(おそ)れがある」
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次回 → 北客(三)(2024年10月15日(火)18時配信)