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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 梅酸・夏の陣(五)
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やうやく許都に帰りついた曹操は帰還の軍隊を解くにあたつて、傍らの諸将に云つた。
「先頃、安象で大敵に待たれた時、見つけない一名の将が手勢百人足らずを率ゐ、余の苦戦を援けてゐたが、さだめし我に仕官を望む者であらう。何(いづ)れの隊伍に属してをるか、糺(たゞ)してみよ」
命に依つて、幕僚の一名は、将台に立つて、その由を、全軍の上に伝へた。
すると、隊列の遙(はる)か後(うしろ)の方から声に応じて、一〔かど〕の面(つら)たましいを備へた武将が、槍を小脇にさしはさんで進み出で、
「此方であります」
と、曹操の前にかしこまつた。
曹操は、一眄(イチベン)して、
「如何(いか)なる素姓(スジヤウ)の者か」
と、たづねた。
「はつ、或(あるい)はなほ、御記憶にありはせぬかと存じますが。——自分は曽(か)つて、黄巾賊の乱にもいさゝか功をたて、一時は鎮威中郎将(チンヰチウラウシヤウ)の栄職にありましたが、その後、思ふところあつて、故郷汝南に帰つてゐました。——李通(リツウ)字(あざな)を文達(ブンタツ)と申す者であります」
旧交はないが、夙(つと)に名は聞いてゐる。曹操は拾ひ物をしたやうに、
「よく機をつかんで、余の急を救(たす)け、余に近づいたのも、一方の将たるに足る才能である。神妙のいたりだ。郷土にもどつて、汝南の守りに就(つ)くがいゝ」
と、稗将軍(ヒシヤウグン)建功侯(ケンコウコウ)に封じた。
又。その日ではないが。
許都に留守届してゐた荀彧が、曹操の帰還を祝したあとで、ふと訊ねた。
「いつぞや、私より早馬をもつて御帰途の途中に向けて劉表、張繡の両軍が嶮をふさいで待ちかまへてゐる由をお報(しら)せしたところ、丞相の御返簡には。——案じるな、我には必ず破るの計がある。——とございましたが、丞相にはどうしてそんな先の確信がおありだつたのですか」
曹操は、答へて、
「あゝあの時か。——あの時は、疲労困憊の極に達してゐたわれわれに対して、劉表と張繡は必殺の備へをして待(まち)かまへてゐた。是(こ)れ、死一道の覚悟をわれ等に与へたものである。為に味方の将士は、のがれぬ所と捨身になつて凄い戦闘を仕懸けた。——人間の逆境も、あれくらゐまで絶体絶命に押しつけられると、死中自(おのづか)ら活路ありで——その道理から余も、咄嗟(トツサ)に、勝つと確信をもつたわけである」
と、笑つて云つた。
そのことばを人々、伝へ合つて、
「丞相の如きこそ真に孫子の玄妙を体得した人といふのだらう」
と、大敗して帰つた彼に対して却(かへ)つて一そう心服を深めたといふことである。
しかしさすがに今年の秋は、去年のやうな祝賀の祭もなかつた。
とはいへ去燕雁来(キヨエンガンライ)の季節である。洛内の旅舎は忙しい。諸州から秋の新穀(シンコク)鮮菜(センサイ)美果(ビクワ)など夥(おびたゞ)しく市(いち)にはいつてくるし、貢来の絹布や肥馬も輻輳(フクサウ)して賑(にぎ)はしい。
その中に、従者五十人ばかりを連れ、羈旅(キリヨ)華(はで)やかな一行が、或る時、駅館の門に着いた。
「冀州の袁紹様のお使者として来た大人(ダイジン)ださうだよ」
旅舎の者は、下へも措(お)かないあつかひである。
この都でも、冀州の袁紹と聞けば、誰知らぬ者はない。天下の何分の一を領有する北方の大々名として、又、累代漢室に仕へた名門として、俗間の者ほど、その偉さにかけては、新興勢力の曹操などよりは遙(はるか)に偉い人——といふ先入主をもつてゐた。
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次回 → 北客(二)(2024年10月14日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。