ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 梅酸・夏の陣(一)
***************************************
行軍は、五月から六月にかゝつた。六月、将(まさ)に大暑である。
わけて河南の伏牛(フクギウ)山脈をこえる山路の難行はひと通りでない。
大列のすぎる後、汗は地をぬらし、草はほこりを被(かぶ)り、山道の岩砂は焼け切つて、一滴の水だに見あたらない。
兵は多く仆(たふ)れた。
「水…………」
「水がのみたい」
「水はないか」
斃(たお)れた兵も呻(うめ)く。
猶(なほ)、進む兵も云ふ。
すると、曹操が、突然、馬上から鞭をさして叫んだ。
「もうすこしだ!この山を越えると、梅の林がある。——疾(と)く参つて梅林の木陰に憩(いこ)ひ、思ふさま梅の実を取れ。——梅の実をたゝき落して喰へ」
聞くと、奄々(エン/\)と渇(カツ)にくるしんでゐた兵も、
「梅でもいゝ!」
「梅ばやしまで頑張れ」
と、遽(にはか)に勇気づいた。
そして無意識のうちに、梅の酸(すつぱ)い味を想像し、口中に唾をわかせて、渇を忘れてしまつてゐた。
——梅酸(バイサン)渇を医す。
曹操は、日頃の閑に、何かの書物で見てゐたことを、臨機に用ひたのであらうが、後世の兵学家は、それを曹操の兵法の一として、暑熱甲冑を焦(や)く日ともなれば、渇を消す秘訣のことばとして、思ひ出したものである。
伏牛山脈をこえて来る黄塵は、早くも南陽の宛城から望まれた。
張繡は、うろたへた。
「はや、後詰(ごづめ)したまへ」
と、荊州の劉表へ、援助をたのむ早打(はやうち)をたて、軍師の賈詡を城にとゞめて、
「つかれ果てた敵の兵馬、大軍とて何ほどかあらう」
と、自身防ぎに出た。
だが、配下の勇士張先(チヤウセン)が、まつ先に曹操の部下許褚に討たれたのを初めとして、一敗地にまみれてしまひ、口ほどもなく又忽ちみだれ合つて、宛城のうちへ逃げこんでしまつた。
曹操の大軍は、ひた寄せに城下にせまつて、四門を完全に封鎖した。
攻城と籠城の形態に入つた。
籠城側は新手(あらて)の戦術に出て、城壁にたかる寄手の兵に沸(に)えたぎつた熔鉄(ヨウテツ)をふりまゐた。
鉄屎(かなくそ)か人間かわからない死骸が、蚊のごとく、ばらばら落ちては壁下の空壕(からぼり)を埋(うづ)めた。
が、そんな事に怯(ひる)む曹操の部下ではない。
曹操も亦(また)、みづから、
「こゝを突破してみせん」
と、西門に向つて、兵力の大半を集注し、三日三晩、息もつかせずに攻めた。
何といつても、主将の指揮するところが主力となる。
雲の梯(かけはし)にも紛ふ櫓(やぐら)を組み、土嚢(ドナウ)を積み、壕(ほり)をうづめ、弩弓の乱射、ときの声、油の投げ柴、炎の投げ松明(たいまつ)など——あらゆる方法をもつて攻めた。
張繡は防ぐ力も尽きて、
「——賈詡、荊州の援軍は、いつ頃着くだらう。もう城の餘命も少(すくな)いが……間にあふか、どうか」
と、たづねた。
軍師たる賈詡の顔いろが、今はたゞ一つの恃(たの)みだつた。
賈詡は落着いて答へた。
「だいじやうぶです」
「まだ、大丈夫か」
「まだ?……いやいや、頑として猶(なほ)、この城は支へられます。のみならず、曹操を生擒(いけどり)にするのも、さして難かしいことではありません」
「えつ。曹操を」
「大言と疑つて、わたくしの言を、疑ふ事がなければ、必ず、曹操の一命は、あなたの掌(てのひら)の物として御覧にいれます」
「どういふ計(はかり)ごとで?」
張繡は、つめ寄つた。
***************************************
次回 → 梅酸・夏の陣(三)(2024年10月9日(水)18時配信)