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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 空腹・満腹(一)
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呉の孫策は、すでに、曹操との軍事経済同盟の約束によつて、大江をわたり、南の方から進撃の途中にあつたが、曹操の書簡を手にして、
「すぐ糧米を運漕せよ」
と、彼の乞(こひ)に応じるべく、本国へ手配をいひ遣(や)つた。
けれど、何分、道は遠い。途中揚子江の大江はあるし、護送には、夥(おびたゞ)しい兵馬も要る。
とやかくと、日数はかゝつた。——そのあひだにも、曹操の陣中では、いよいよ兵糧総官の王垢も悲鳴をあげ出してゐた。
「丞相。——申しあげます」
「なんだ、王垢と任峻(ジンシユン)ではないか。両名とも元気のない顔をそろへて何事だ」
任峻は、倉奉行である。
王垢と共に、曹操のまへへ出て、遂に、窮状を訴へた。
「もはや、兵の糧は、つゞきません、幾日分もございません」
「それが何(ど)うした?」
曹操は、わざと、そう嘯(うそぶ)いて云ひ放つた。
「予に相談してどうなるか。予は倉奉行でもないし、兵糧総官でもないぞ」
「はつ。……」
「辞めてしまへつ。左様なこと位(くらゐ)でいち/\予に相談しなければ職が勤まらぬ程なら」
「はいつ」
「——が、こんどだけは、智恵をさづけてやらう。今日から、糧米を兵へ配る斛(ます)を更(か)へるがいゝ。小斛(こます)を使ふのだ小斛を。——さすればだいぶ違ふだらう」
「斛目(ますめ)を減じれば、大へん違つてまゐります」
「さういたせ」
「はつ」
二人は倉皇と退がつて、直(たゞち)にその日の夕方から、小斛を用ひはじめた。
一人五合づゝの割(わり)あてが、一(イチ)合(ガウ)五(ゴ)勺(シヤク)減(べり)の小斛となつた。もちろん粟(あわ)、黍(きび)、草根(サウコン)まで混合してある飢饉時の糧米なので、兵の胃ぶくろは満足する筈がない。
「どんな不平を鳴らしてゐるか」
曹操はひそかに、下級兵のつぶやきに耳をたてゝゐた。もちろん喧々囂々(ケン/\ゴウ/\)たる悪声であつた。
「丞相もひどい」
「これでは出征の時の宣言と約束がちがふ」
「こんなもので戦へるか」
要するに、怨嗟は曹操にあつまつてゐる。喰物(くひもの)のうらみは強い。曹操は、糧米総官の王垢を呼んだ。
「不平の声がみちてゐるな」
「どうも……取(とり)鎮(しづ)めてはをりますが、如何(いかん)とも」
「策はあるまい」
「ございません」
「故(ゆゑ)に予は、おまへから一物を借りて、取鎮めようと思ふ」
「わたくし如き者から、何を借りたいと仰せられますか」
「王垢。おまへの首だ」
「げツ……?」
「すまないが貸してくれい。もし汝が死なぬとせば、三十万の兵が動乱を起す。三十万の兵と一つの首だ。——その代りそちの妻子は心にかけるな。曹操が生涯保証してやる」
「あつ。それそれはあんまりです。丞相ツ、助けてください」
王垢は泣き出したが、曹操は平然と、かねて云ひ含ませてある武士に眼くばせした。武士は飛びかかツて、王垢の首を斬り落した。
「すぐ陣中に梟(か)けろ」
曹操は命じた。
王垢の首は竿に梟けられて陣中に曝(さら)された。それに添へる立札まで先に用意されてあつた。
立札には、
王垢、糧米を盗み、小斛
を用ひて私腹をこやす。
罪状歴然。軍法に
依つてここに正す。
と、書いてあつた。
「さては、小斛を用ひたのは、丞相の命令ではなかつたとみえる。ひどい奴だ」
兵は、王垢を怨んで、曹操に抱いてゐた不平は忘れてしまつた。その士気一変の転機をつかんで、曹操は即日大号令を発した。
「こん夜から三日のうちに、寿春を攻め陥すのだ。怠る者は首だぞ。立ちどころに死罪だぞ!」
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次回 → 空腹・満腹(三)(2024年10月5日(土)18時配信)