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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 仲秋荒天(三)
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——一時、この寿春(じゆしゆん)を捨て、本城を他へ遷(うつ)されては。
と、いふ楊大将の意見は、たとえ暫定的なものにせよ、ひどく悲観的であるが、袁術皇帝をはじめ、諸大将、誰あつて、
「それは餘りにも、消極策すぎはしないか」
と、反対する者もなかつた。
それには理由がある。
誰も口にはしないが、実をいへば内部的に大きな弱点がある事を、誰も知悉(チシツ)してゐるからだつた。
と云ふのは、この年、寿春地方は、水害がつゞいて、五穀熟せず、病人病馬は続出し、冬期の兵糧もはなはだ心許(こころもと)なかつた。
ところへ、この兵革をうけたので、それも士気の振はない一因だつた。——で、楊大将の考へとしては、皇帝の眷族(ケンゾク)と、本軍の大部分を水害地区の外にうつし、ひとつに兵糧持久の策とし、二つには目前の敵の鋭気を避け、遠征軍には苦手な冬季を越える覚悟で、時々奇襲戦術をもつて酬い、おもむろに事態の変化を待たうといふのである。
「なるほど、これが万全かもしれない」
長い沈黙はつゞいたが、やがて各々うなづいた。
袁術皇帝も、
「その儀、しかるべし」
と、許容あつて、立ちどころに大々的脱出の手配にかゝつた。
李豊、楽就、陳紀、梁剛の四大将は、あとに残つて、寿春を守ることになり、これに属する兵はおよそ十万。
又、袁術とその眷族に従つて、城を出てゆく本軍側には、将士二十四万人が附随し、府庫(フコ)宮倉(キウソウ)の金銀珍宝はいふまでもなく、軍需の貨物や文書官冊などもみな、昼夜、車につんで陸続と搬出し、これを淮水の岸からどし/\船積みして何処ともなく運び去つた。
袁術も、扈従(コジウ)の臣も、もちろん逸(いち)はやく、淮水の彼方へ渡つて、遠く難を避けてしまつた。
残るはたゞ満々たる水と、空骸(クウガイ)にひとしい城があるばかり。——曹操以下、寄手の三十万が、城下へ殺到したのは、実にその直後だつたのである。
こゝへ来て、曹操も亦(また)、大いに弱つてゐた。
寿春へ近づくほど、水害の状況がひどい。想像以上な疲弊である。
城内の町は分らないが、郊外百里の周囲は、まだ洪水のあとが生生(なまなま)しく、田は泥湖(どろうみ)と化し、道は泥没(デイボツ)し、百姓はみな木の皮を喰つたり、草の葉に露命をつないでゐる状態である。果然、彼の兵站(ヘイタン)部は大きな誤算にゆきあたつて、
「どうしたら三十万の兵を養うか」
に苦労しはじめた。
遠征の輜重(シチヤウ)は、もとよりさう多くの糧米は持つてあるけない。行く先々の敵産が計算に入れてある。
「これ程とは!」
と、糧米総官の王垢(ワウクワウ)が、この地方一帯の水害を見た時、茫然、当惑したのも無理はなかつた。
それも、七日や十日は、まだ何とかしのぎもつてゆく。
半月となるとこたへて来た。
ところが、滞陣はすでに一ケ月に近くなつた。陣中の兵糧は涸渇(コカツ)を呈した。
「一時に攻(せめ)陥(おと)せ」
むろん曹操もあせりぬいてゐる。しかし攻城作戦のほうも水害のため、兵馬のうごきは不活潑(フクワツパツ)となるし、城兵は頑強だし、容易に捗(はかど)らないのである。
そこで曹操は、呉の孫策へあてて、一書を認(したゝ)め、早馬で飛ばした。
秋高の天、地は水旱(スイカン)
精兵は痩せ、肥馬は衰ふ
呉船来るを待つや急なり
慈米(ジマイ)十万は百万騎に勝る
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次回 → 空腹・満腹(二)(2024年10月4日(金)18時配信)