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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 増長冠(ぞうちやうくわん)(四)
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【前回迄の梗概】
後漢末の乱世に乗じて、群雄が各地に割拠したが、山東の曹操、江南の袁術、徐州の呂布、江東の孫策及び小沛の劉玄徳はその中の雄なるものであつた、天下統一の野心満々たる袁術は江東に兵を進めんには先づ呂布と結び玄徳を討つに如かずとなし、政略結婚によらんとしたが呂布の謀臣陳珪の見破るところとなつて失敗したのみか、使者の陳登(ママ)は呂布の手より曹操に送られ斬首にされて了つた。激怒した袁術は即座に廿万の大軍を動員して徐州に寄せて来た。然し、それも陳珪の謀により敵将韓暹の買収に成功した上、先に小沛から豫州の牧となつた玄徳の助勢等があつて、呂布軍の大勝利に終つて了つた。
◇…淮南も秋深き一日、事毎に失敗に終つて失意の底にある袁術はかねて養つたことのある孫策に呂布討伐に協力されたい旨の書を送つたが、こゝからも帝位を僭する者よ首を洗つてまつべしとの冷たい返事であつた。
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「袁術先生、余のてがみを読んで、どんな顔をしたらう」
淮南の使(つかひ)を追ひ返したあとで、孫策はひとりをかしがつてゐた。
しかし、又一方、
「かならず怒り立つて、攻め襲うて来るにちがひない」
とも思はれたので、大江の沿岸一帯に兵船を泛(うか)べ、いつでも御座んなれとばかり備へてゐた。
ところへ、許都の曹操から使者が下つて、天子のみことのりを伝へ、孫策を会稽の太守に封じた。
孫策は、詔をうけたが、同時に曹操からの要求もあつた。
いやそれは朝命としてゞあつた。
——直ちに、淮南へ出兵し、偽帝袁術を誅伐せよ。
といふ命令である。
元より拒むところでない。玉璽をあづけた一半の責任もある。孫策は、
「畏(かしこ)まりて候(さふらふ)」
と、勅に答へた。
許都の使(つかひ)が帰つた日である。
呉の長史——孫策の家老格である張昭は彼に目通りして云つた。
「易々(イヽ)と御承諾になつたやうですが、何といつても淮南は豊饒の地、袁一族は名望と伝統のある古い家柄です。先頃、呂布と一戦してやぶれたりと雖(いへど)も、決して軽軽しく見ることはできません。——それにひきかへ、わが呉は、新興の国です。鋭気や若さはありますが、財力、軍の結束など、まだ足りません」
「やめろと云ふのか」
「勅を拝して、今さら命に背(そむ)けば、異心ありと見なされます」
「では、どうする?」
「如(し)かず、この際は——あなたから曹操へ急書を発し、こちらは江を渡つて袁術の側面を衝く故(ゆゑ)、許都から大軍を下し、彼の正面に当り給へ——と、専ら曹操の軍に主戦をやらせるのです。そして御当家はあくまでも、援兵といふお立場をおとりなさい」
「なるほど」
「一にも二にも、曹操を助けると唱へておけばです、後日、御当家に危急のあつた折に、曹操へ援兵を要求する事だつて出来ませう」
「や、ありがたう。長史のことばは、近頃の名言だ。その通りに計らはう」
彼の発した書簡は、日ならずして、許都の相府に着いた。
この秋、相府の人々は、
「丞相は近ごろ、愚に返つたんぢやないか」
と、憂ひあふほど、曹操はすこしぼんやりしてゐた。
この春、張繡を討つべく遠征して、かへつて惨敗を負つて帰つたので、彼の絶大な自信に揺(ゆる)ぎが来たのか、又、多情多恨な彼の事とて、今なふ、芙蓉帳裡(フヤウチヤウリ)の明眸(メイバウ)や、晩春の夜の胡弓の奏(かな)でが忘れ得ないのか——とにかく、この秋の彼の姿は、いつになく淋しい。
「否(いな)、否。——丞相はそれほど甘い煩悩児でもないよ」
と、相府のある者は、彼のすがたをよく新しい祠堂(シダウ)の道に見ると云つて、人々の愚かな臆測をうち消した。
新しい祠堂といふのは、張繡との戦に、奮戦して討死した悪来典韋のために建てた廟であつた。
曹操は、帰京後も典韋の霊をまつり、子の典満(テンマン)を取りたてゝ中郎に採用し、果(はて)しなく彼の死を愁(いた)んでゐた。
そこへ、呉の孫策から急書がとどいた。曹操は、一議におよばず承知のむねを返辞して、即日卅餘万の大兵を動員した。一面は痴児のごとく、めそ/\悲しむくせがあるかと思へば、忽ち果断邁進、三軍を叱咤するの一面を示す彼であつた。
大軍は、続々都を立つた。
時、建安の二年秋九月。許都は麗しい月夜だつた。
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次回 → 仲秋荒天(二)(2024年10月1日(火)18時配信)