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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 増長冠(三)
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祝賀のあとでは、当然、恩賞が行はれた。
関羽は次の日、手勢をひいて豫州へ帰つて行つた。
以来、呂布はすつかり陳大夫を信用して、何事も彼に諮つてゐたが、
「時に、韓暹と楊奉のうち、一名は自分の左右に留めておかうと思ふが、老人の考へはどうか」
と、今日もたづねた。
陳珪は、答へて云つた。
「将軍の座右には、すでに人材が整うてゐます。一羽の馴れない鶏を入れた為に、鶏舎の群鶏がみな躁狂(サウキヤウ)して傷つく例もありますから、よほど考へものです。むしろ二人を山東へやつて、山東の地盤を強固ならしめたら、一、二年の間に大いに効果があがるでせう」
「実(げ)にも」
と、呂布はうなづいた。
で、韓暹を沂都(キト)へ、楊奉を瑯琊へ役付けて、赴任させてしまつた。
老人の子息陳登は、そのよしを聞いて、不平に思つたのか、或(ある)時(とき)、ひそかに父の料簡をたゞした。
「生意気を云ふやうですが、すこし父上のお考へと私の計画とはちがつてゐたやうですね。私は、あの二人を留(とめ)置(お)いて、いざといふ時、われ/\の牙として、大事に協力させようと思つてゐたのに」
皆まで聞かず、陳大夫は、若い息子のことばを打消して、そつと囁(さゝや)いた。
「その手は巧くゆかんよ。なぜなら、いくら手なづけても、元来、彼らは卑しい心性しかない。わしら父子に与(くみ)すよりは、日のたつ程呂布に諂(へつら)ひ、呂布の走狗(ソウク)となつてゆくに違ひない。さすれば却つて、虎に翼を添へてやるやうなものだ。呂布を殺す時の邪魔者になる……」
陳大夫はまた門を閉ぢて、病室に籠つた。呂布から呼び迎へに来てもよほどのことでないと、めつたに出てもゆかないのである。
梧桐(ゴトウ)は落ちはじめた。夏去り、秋は近くなる。
淮南の一水にも、秋色は澄み、赤い蜻蛉(あきつ)が、冴えた空に群をなして舞ふ。
袁術皇帝は、この秋、頗(すこぶ)る御気色(みけしき)うるはしくない。
「呂布め。裏切者共め」
いかにして先頃の恥をそゝがうかと、厳かな帝座に在つて、時々、爪を嚙んでゐた。
かういふ時、思ひ出されるのは、曽(かつ)て自分の手もとにゐた孫策である。
その孫策は、いつのまにか、大江を隔てゝ呉の沃土をひろく領し、江東の小覇王といはれて、大きな存在となつてゐるが、袁術は彼の少年頃から手もとに養つてゐたせゐか、いつでも、自分のいふ事なら、嫌(いや)とは云はないやうな気がする——
そこで彼は、孫策のところへ、使を立てた。
蔭ながら御身の成功をよろこんでをる。
御身も亦(また)我との誼(よしみ)を
わすれはしまい。
近ごろ御身の呉国はいよ/\隆昌に向ひ、
文武の大将も旗下に多いと聞く。この際、
我と力を協(あは)せ、呂布を討つて、
彼の領を処理し、更に、呉に勢威を加へ
てはどうか。
それが、御身のため、長久の計でもあらう。
と、いふやうな書翰だつた。
江を渡つた使者の船は、呉城に入つて、正式に孫策と面会し、袁術の手簡を捧げた。
孫策はすぐ返辞を書いて、
「委細はこのうち」
と、軽く使者を追(おひ)返(かへ)した。
袁術が、その返書をひらいてみると、かう書いてあつた。
老君、余の玉璽を返さず、帝位を僭して、
さらに世を紊(みだ)す。
余、天下に謝すの途(みち)を知る。
いつの日か、必ずまみえん。
乞ふ、首をあらうて待て。
「豎子(ジユシ)つ。よくも朕をかく辱(はづか)しめたな」
袁術は、書面を引裂いて、直に呉へ出兵せよと罵つたが、群臣の諫めに、漸く怒りをおさへて時を待つことにした。
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次回 → 仲秋荒天(一)(2024年9月30日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。