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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 増長冠(一)
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陳大夫は次に、呂布の書簡を取出して、
「以上、申しあげた儀は、それがしの一存のみでなく、呂布の意中でもあること。仔細はこの書面に——」
と、披見を促した。
韓暹は始終、沈湎(チンメン)と聞いてゐたが、呂布の書簡を披(ひら)いて遂に肚(はら)を決めたらしく、
「いや、実を申せば、自分も常常、袁術の増長ぶりには、〔あいそ〕も尽き、漢室に帰参したいものと考へてゐたものゝ、何せむ、よい手蔓(てづる)もなかつたので——」
と、本心を吐いた。
こゝまで来れば、もう掌上の小鳥。陳大夫は、心に北叟(ほくそ)笑(ゑ)みながら、
「第七軍の楊奉と尊公とは、常から深いお交(まじは)りであらうが。——楊将軍を誘つて、共に合図をおとり召されては如何」
「合図をとれとは?」
韓暹は、小声のうちにも、息を弾ませた。こゝ生涯の浮沈とばかり、心中波立つてゐる容子が明(あきら)かであつた。
陳大夫も、声をひそめて、
「されば、徐州に迫る日を期して、御辺(ごへん)と楊奉とで謀(しめ)しあはせ、後(うしろ)より火の手をあげて裏切りし給へ。同時に、呂布も精鋭をひきゐて、一揉みに駆けちらせば、袁術の首を見るは半日の間も待つまい」
「よし。誓つて——」
と、韓暹は月を見た。夜は更けて松のしづくが梢に白い。陣中、誰のすさびか笙(セウ)を吹き鳴らしてゐる者がある。兵も、暑いので眠られないとみえる。
短い夏の夜は明ける。
いつのまに帰つたか、陳大夫のすがたは朝になるともう見えなかつた。陽(ひ)が高くなると、けふも酷熱である。その中を、袁術の本営から伝騎の令は八方へ飛んだ。
七路の七軍は一斉にうごき出した。雲は低く、おどろ/\遠雷が鳴りはためいてゐる。
徐州城は近づいた。
一天晦瞑、墨をながしたやうな空に、青白い電光がひらめく度に、城壁の一角がぱつと明滅して見える。
ぽつ!ぽつ!と大つぶの雨と共に、雷鳴もいよ/\烈しい。戦は開始された。
七路に迫る寄手は喊声(カンセイ)をあげて来た。呂布も勿論、防ぎに出てゐた。——驟雨(シウウ)は沛然(ハイゼン)として天地を洗つた。
夜になつたが、戦況はわからない。そのうちにどうしたのか、寄手の陣形は乱脈に陥り、流言、同士討、退却、督戦、又混乱、まつたく収まりがつかなくなつてしまつた。
「裏切りが起つた」
夜が明けて、初めて知れた。第一軍張勲のうしろから、第七軍の楊奉、第六軍の韓暹が、火の手をあげて、味方へ討つてかゝつて来たのである。
——と知つた呂布は、
「今だつ」
と、勢を得て、敵の中央に備へ立てゝゐる紀霊、雷薄、陳紀などの諸陣を突破して、またゝくまに本営に迫つた。
楊奉、韓暹の手勢は、その左右から扶けた。袁術の大軍廿(にじふ)万も凩(こがらし)に吹き暴(あ)らさるゝ木の葉にもひとしかつた。
呂布は、無人の境を行くごとく、袁術いづこにありやと、馳けまはつてゐたが、そのうちに彼方の山峡から一(イツ)颷(ペウ)の人馬が駈け出でてさつと二手にわかれ、彼の進路をさへぎつたかと思うと、突然、山上から声があつた。
「匹夫呂布、自ら死地をさがしに来たるかつ」
「——あつ?」
と、驚いて見あげると、日月の旗、龍鳳(リウホウ)の幡(ハン)、黄羅の傘を揺々と張らせ、左右には、金瓜(キンクワ)、銀斧(ギンプ)の近衛兵をしたがへた自称帝王の袁術が、黄金のよろひに身をかためて、傲然と見下ろしてゐた。
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次回 → 増長冠(三)(2024年9月27日(金)18時配信)