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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 陳大夫(三)
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否応もない。陳大夫父子は、その場から拉致されて行つた。
待ちかまへてゐた呂布は、父子が面前に引きすゑられると、刮(くわ)つと睨(ね)めつけ、
「この老ぼれ。よくもわれを巧々(うま/\)とあざむいたな。けふこそは断罪だ」
と、直に、武士に命じて、その白髪首を打ち落せ——と猛(たけ)つた。
陳大夫は相かわらず、にや/\手応へのない笑ひ方をしてゐたが、それでも、少し身をうごかして両手をあげ、
「御短気、御短気」
と、煽(あふ)ぐやうに云つた。
呂布は猶(なほ)さら烈火の如くになつて、殿閣の梁(うつばり)も震動するかとばかり吼えた。
「おのれ、まだわれを揶揄するか。その素首の落ちかけてゐるのも知らずに」
「待たしやれ。落ちかけてゐるとは、わしが首か。あなたのお首か」
「今。眼に見せてやる」
呂布が、自身の剣へ手をかけると、陳大夫は、天を仰ぐやうに、
「ああ、御運の末か。一代の名将も、かう眼が曇つては救はれぬ。みす/\御自身の剣で、御自身の首を刎(は)ねようとなさるわ」
「何を、ばかな!」
と、罵つたが、呂布も多少気が悪くなつた。
その顔いろの隙へ、陳大夫の舌鋒はするどく切りこむやうに云つた。
「確か、先日も申しあげてあるはずです。いかなる良策も、お用ひなければ、空想を語るに等しいと。——この老ぼれの首を落したら、誰かその良計を施して、徐州の危急を救ひませうか。——ですからその剣をお抜きになれば、御自身の命を自ら断つも同じではございませんか」
「汝の詭辯は聞き飽いた。一時のがれの上手を云つて、邸(やしき)に帰れば、暢気(のんき)に寝てをるといふではないか。——策を用ひぬのは、われではなく汝といふ古狸だ」
「故に、御短気ぢやといふので御座る。陳大夫は早ひそかに、策に着手してゐます。即(すなは)ち近日のうちに、敵の第六軍の将韓暹と、某所で密会する手筈にまでなつてをるので」
「えつ。ほんとか」
「何で噓言を吐きませう」
「然(しか)らば何で、私邸の門を閉ぢて、この戦乱のなかを、安閑と眠つてゐるのか」
「真の策士はいたづらに動かず——といふ言葉を御存じありませんか」
「巧言をもつて、われを欺(あざむ)き、他国へ逃げんとする支度であらう」
「大将軍たる者が、小人のやうな邪推をまはしてはいけません。それがしの妻子眷族(ケンゾク)は、みな将軍の掌の内にあります。それ等の者を捨てゝこの老人が身一つ長らへて何国(いづこ)へ逃げ行きませうや」
「では、直(たゞち)に、韓暹に行(ゆき)会(あ)ひ、初めに其方が申した通り、わが為に、最善の計(はかり)ごとを施す気か、何(ど)うだ?」
「それがしは元よりその気でゐるのですが、肝腎なあなたは何(ど)うなんです」
「ウーム。……おれの考へか。おれもそれを希(ねが)つてゐるが、たゞ悠長にだら/\と日を過してゐるのは嫌ひだ。やるなら早くいたせ」
「それよりも、内心この陳大夫をお疑ひなのでせう。よろしい。然(しか)らばかうしませう。せがれ陳登は質子(チシ)として、御城中に止めておき、てまへ一人で行つて来ます」
「でも、敵地へ行くのには、部下がなければなるまい」
「従(つ)れてゆく部下には、ちと望みがございます」
「何十名要るか。又、部将には誰をつれて行きたいか」
「部将などいりません。供もたゞ一匹で結構です」
「一匹とは」
「お城の牧場から一頭の牝羊(めひつじ)をお下(さげ)渡してください。韓暹の陣地は、下邳の山中と聞く。——道々、木の実を糧(かて)とし、羊の乳をのんで病軀を力づけ、山中の陣を訪れて、きつと韓暹を説きつけてみせます。ですから、あなたの方でも、お抜かりなく、劉玄徳へ使(つかひ)を立て、万端、お手配をしておかれますやうに」
陳大夫はその日、一頭の羊を曳(ひ)いて、城の南門から、飄然と出て行つた。
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次回 → 増長冠(ぞうちやうくわん)(一)(2024年9月25日(水)18時配信)