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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 陳大夫(二)
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慢心した暴王に対しては、命がけで正論を吐いて諫める臣下もなかつたが、たゞひとり、主簿(シユボ)の閻象(エンシヤウ)という者が、折を窺(うかゞ)つて云つた。
「由来、天道に反(そむ)いて、栄えた者はありません。むかし周公は、后稜(コウシヨク)から文王におよぶまで、功を積み徳をかさねましたが、なほ天下の一部をもち、殷の紂王にすら仕へてゐました。いかに御当家が累代盛んでも、周の盛代には及ぶべくもありません。また漢室の末が衰微しても、紂王のやうな悪逆もしてをりません」
袁術は聞いてゐるうちにもう甚だしく顔いろを損じて、皆まで云はせず、
「だから、何(ど)うだといふのか」と、怖ろしい声を出した。
「……ですから」
閻象はふるへ上がつて、後のことばも出なくなつた。
「だまれツ。学者ぶつて、小賢(こざか)しいやつだ。——われに伝国の玉璽が授かつたのは偶然ではない。いはゆる天道だ。もし、自分が帝位に即(つ)かなければ却(かへつ)て天道に反く。——貴さまの如き者は書物の紙魚(しみ)と共に日〔なた〕で欠伸(あくび)でもしてをればよろしい。退れつ」
袁術は、臣下の中から、二度とこんな事を云はせない為に、
「以後、何者たりと、わが帝業に対して、論議(あげつら)ひするやつは、即座に断罪だぞ」
と、布令させた。
そこで彼は、すでに先発した大軍の後から、更に、督軍親衛軍の二軍団を催して、自身、徐州攻略に赴いた。
その出陣にあたつて、兗州の刺史金尚(キンシヤウ)へ、
「兵糧の奉行にあたれ」
と、任命したところ、何の故か、金尚がその命令にグヅ/\云つたといふ〔かど〕で、彼は、忽ち親衛兵を向け、金尚を搦(から)めて来ると、
「これ見よ」
とばかり首を刎ねて、血祭りとした。
督軍、親衛の二軍団がうしろにひかへると、前線二十万の兵も、
「いよいよ、合戦は本腰」
と、気をひきしめた。
七手にわかれた七将は、徐州へ向つて、七つの路(みち)から攻め進み、行く/\郡県の民家を焼き、田畑をあらし、財を掠(かす)めてゐた。
第一将軍張勲(チヤウクン)は、徐州(ジヨシウ)大路(オホヂ)へ。
第二将軍橋蕤(ケウズイ)は、小沛(セウハイ)路(ヂ)へ。
第三陳紀(チンキ)は、沂都(キト)路へ。
第四雷薄(ライハク)は、瑯琊(ラウヤ)へ。
第五陳闌(チンラン)の一軍は碣石(カツセキ)へ。
第六軍たる韓暹は、下邳(かひ)へ。
第七軍の楊奉は峻山(シユンザン)へ。
——この陣容を見ては、事実呂布がふるへあがつたのも、あながち無理ではない。
呂布は、陳大夫が、やがて「内応の計」の効果をあげて来るのを心待(こゝろまち)にしてゐたが、陳(チン)父子(おやこ)はあれきり城へ顔も出さない。
「如何したのか!」
と、侍臣をやつて、彼の私邸を窺はせてみると、陳大夫は長閑(のどか)な病室で、ぽかんと、陽なた〔ぼツこ〕しながら、いかにも老(おい)を養つてゐるといふ暢気(のんき)さであるといふ。
短気な呂布、しかも今は、陳大夫の方策ひとつに恃(たの)みきつてゐた彼。
何で穏(おだや)かに済まう。すぐ召捕ツて来いという呶(ど)鳴(な)り方だ。先には、彼の舌にまどはされてゆるしたが、今度は顔を見た途端に、あの白髪首をぶち落してくれねばならん!
捕吏が馳け向つた後でも、呂布はひとり忿憤(フンプン)とつぶやきながら待ちかまへてゐた。
——ちやうど黄昏(たそが)れ時。
陳大夫の邸(やしき)では、門を閉ぢて、老父の陳大夫を中心に、息子の陳登も加はつて、家族たちは夕餉(ゆうげ)の卓をかこんでゐた。
「オヤ、何だらう」
門の壊れる音、屋鳴(やなり)、召使(めしつかひ)のわめき声。つゞいてそこへどか/\と捕吏や武士など大勢、土足のまま這(は)入(い)つて来た。
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次回 → 陳大夫(四)(2024年9月24日(火)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。
また、9月24日付夕刊は秋季皇霊祭(秋分日)の振替休日に伴い休刊でした。このため、9月23日(月)の配信もありません。