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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(四)
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曹操はその間、じつと于禁の面を正視してゐたが、于禁の明快な申し立(たて)を聞き終ると
「いや、よく分つた。余が君に抱いてゐた疑ひは一掃した」
と、于禁へ手をさしのべ、力をこめて云つた。
「よく君は、公私を分別して、混乱に惑はず、自己一身の誹謗を度外視して、よく味方の防塁を守り、しかも敵の急迫を退けてくれた。——真に、君のごとき者こそ、名将といふのだらう」
と、口を極めて賞讃し、特にその功として、益寿亭侯(エキジユテイコウ)に封じ、当座の賞としては、黄金の器物一副(そへ)をさづけた。
又。
于禁を誹(そし)つて訴へた青州の兵はそれ/゛\処罰し、その主将たる夏侯惇(カコウトン)には
「部下の取締り不行届きである」
との理由で、譴責を加へた。
曹操は今度の遠征で、人間的な半面では、大きな失敗を喫したが、一たん三軍の総帥に立ち返つて、武人たるの本領に復せば、このやうに賞罰明(あきら)かで、いやしくも軍紀の振粛をわすれなかつた。
賞罰の事も片づくと、彼は又、祭壇をまうけて、戦没者の霊を弔つた。
その折、曹操は、全軍の礼拝に先だつて、香華の壇にすゝみ、涙をたゝへて
「典韋。わが拝をうけよ」
と、云つた。
そして、瞑目久しうして、なほ去りもやらず、三軍の将士へ向つて
「こんどの戦で、余は、長子の曹昂と、愛甥(アイセイ)の曹安民とを亡くしたが、余はなほ、それを以て、深く心を傷ましはしない。……けれど、けれど。日常、余に忠勤を励んだ悪来の典韋を死なせたのは、実に、残念だ。——典韋すでに亡しと思ふと、余は泣くまいとしても、どうしても泣かずには居られない」
と、流涕(リウテイ)しながら云つた。
粛として、彼の涙をながめてゐた将士は、みな感動した。
もし曹操の為に死ねたら幸福だといふやうな気がした。忠節は日常が大事だとも思つた。
何せよ、曹操は、惨敗した。
しかも味方の心を緊(し)め直した事に於(おい)ては、その失敗も償つて餘りがあつた。
逆境を転じて、その逆境をさへ、前進の一歩に加へて行く。——さういふ〔こつ〕を彼は知つてゐた。
故ある哉(かな)。
過去をふりむいて見ても、曹操の勢力は、逆境のたびに、躍進して来た。
× ×
一たん兵を退いて都の許昌に帰つて来ると、曹操のところへ、徐州の呂布から使者が来て、一名の捕虜を護送してよこした。
使者は、陳珪老人の子息陳登であり、囚人(めしうど)は、袁術の家臣、韓胤であつた。
「すでに御存じでせうが、この韓胤なる者は、袁術の旨(むね)をうけて、徐州へ来てゐた婚姻の使者でありました。——呂布は、先頃、あなたからの恩命に接し、朝廷からは、平東将軍の綬を賜はつたので、いたく感激され、その結果、袁術と婚をむすぶ前約を破棄して、爾後(ジゴ)、あなたと親善をかためてゆきたいといふ方針で——その證(あかし)として、韓胤を縛(くゝ)りあげ、かくの如く、都へ差立てゝ来た次第でありまする」
陳登は、使(つかひ)の口上を述べた。
曹操はよろこんで、
「双方の親善が結ばれゝば、呂布にとつても幸福、余にとつても幸福である」
と、すぐ刑吏に命じて、韓胤の首を斬れと云つた。
刑吏は、市(いち)にひき出して、特に往来の多い許都の辻で、韓胤を死刑に処した。
その晩、曹操は
「遠路、御苦労であつた」
と、使(つかひ)の陳登を私邸に招待して、宴をひらいた。
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次回 → 陳(ちん)大夫(たいふ)(一)(2024年9月19日(木)18時配信)