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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(三)
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淯水の流れは暗い。もし昼間であつたら紅に燃えてゐたらう。
曹操も満身血しほ。馬も血みどろであつた。しかも馬はすでに再び起たない。
逃げまどふ味方の兵も、殆(ほとん)どこの河へ来て討たれた様子である。
曹操は、身一つで、漸く岸へ這ひあがつた。
すると闇の中から
「父上ではありませんか」
と、曹昂(サウカウ)の声がした。
曹昂は、彼の長子である。
一群の武士と共に、彼も九死に一生を得て、逃げ落ちて来たのであつた。
「これへお召(めし)なさい」
曹昂は、鞍を降りて、自分の馬を父へすゝめた。
「いゝ所で会つた」
曹操は欣(うれ)しさにすぐ跳び乗つて馳け出したが、百歩とも駈けないうちに、曹昂は、敵の乱箭に中(あた)つて、戦死してしまつた。
曹昂は、斃(たふ)れながら、
「わたくしに構はないでお落ち下さい。父上つ。あなたのお命さへあれば、何時だつて、味方の雪辱はできるんですから、私などに目をくれずに逃げのびて下さい」
と、叫んだ。
曹操は、自分の拳で自分の頭を打つて悔いた。
「かういふ長子を持ちながら、おれは何たる煩悩な親だらう。——遠征の途にありながら、陣務を怠つて、荊園(ケイヱン)の仇花(あだばな)に、心を奪はれたりなどして、思へば面目ない。しかもその天罰を父に代つて子がうけるとは。——噫(あゝ)、ゆるせよ曹昂」
彼は、わが子の死体を、鞍の〔わき〕に抱へ乗せて、夜どほし逃げ走つた。
二日ほど経つと、漸く、彼の無事を知つて、離散した諸将や残兵も集まつて来た。
折も折、そこへ又、
「于禁が謀叛を起して、青州の軍馬を殺した」
といつて、青州の兵等が訴へて来た。
青州は味方の股肱、夏侯惇の所領であり、于禁も味方の一将である。
「わが足もとの混乱を見て、乱を企むとは、憎んでも餘りある奴」
と、曹操は激怒して、直(たゞち)に于禁の陣へ、急兵をさし向けた。
于禁も、先頃から張繡攻めの一翼として、陣地を備へてゐたが、曹操が自分へ兵をさし向けたと聞くと、慌てもせず
「塹壕(ザンガウ)を抗(ほ)つて、いよ/\備へを固めろ」
と命令した。
彼の臣は日頃の于禁にも似あはぬ事と、彼を諫めた。
「これはまつたく青州の兵が、相丞に讒言(ザンゲン)をしたからです。それに対して、抵抗しては、ほんとの叛逆行為になりませう。使(つかひ)を立てゝ明(あきら)かに事情を陳辯なされてはいかゞですか」
「いや、そんな間はない」
于禁は、陣を動かさなかつた。
その後、張繡の軍勢も、こゝへ殺到した。しかし于禁の陣だけは一絲(イツシ)みだれず戦つたので、よくそれを防ぎ、遂に撃退してしまつた。
その後で、于禁は、自身で曹操をたづねた。そして青州の兵が訴へ出た件は、まつたく事実と〔あべこべ〕で、彼等が、混乱に乗じて、掠奪をし始めたので、味方ながらそれを討ち懲(こら)したのを恨みに思ひ噓言を構へて、自分を陥さんとしたものであると、明瞭に云ひ開きを立てた。
「それならばなぜ、余が向けた兵に、反抗したか」
と、曹操が詰問すると
「——されば、身の罪を辯疏(いひわけ)するのは、身ひとつを守る私事です。そんな一身の安危になど気を奪(と)られてゐたら、敵の張繡に対する備へはどうなりますか。仲間の誤解などは後から解ければよいと思つたからです」
と、于禁は明晰に答へた。
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次回 → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(五)(2024年9月18日(水)18時配信)