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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(二)
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曹操はこよひも、鄒氏と共に、酒を酌みかはしてゐた。
ふと、杯を措(お)いて
「なんだ、あの馬蹄の音は」
と、怪しんで、すぐ侍臣を、見せにやつた。
侍臣は、帰つて来て、
「張繡の隊が、逃亡兵を防ぐため、見廻りしてゐるのでした」
と、告げた。
「あゝさうか」
曹操は、疑はなかつた。
けれど又、二更の頃、ふいに中軍の外で、吶喊(トツカン)の声がした。
「見て来い!何事だ?」
ふたゝび侍臣は馳けて行つた。そして帳外からかう復命した。
「何事でもありません。兵の粗相から馬糧を積んだ車に火がついたので、一同で消し止めている所です」
「失火か。……何の事だ」
すると、それから間もなく、窓の隙間に、ぱつと赤い火光が映じた。宵から泰然とかまへてゐた曹操も、恟(ぎよ)ツとして、窓を押し開いてみると、陣中いちめん黒(くろ)煙(けむ)りである。それに凡事ならぬ喊声(カンセイ)と人影のうごきに、
「典韋つ、典韋!」
と、呼びたてた。
いつになく、典韋も来ない。
「——さては」
と、彼はあわてゝ鎧甲(よろいかぶと)を身に着けた。
一方の典韋は、宵から大(おほ)鼾(いび)きで眠つてゐたが、鼻をつく煙りの異臭に、がばと刎(は)ね起きてみると、時すでに遅し、——寨(とりで)の四方には火の手が上がつてゐる。
すさまじい喊殺(カンサツ)の声、打鳴らす鼓の響き。張繡の寝返りとはすぐ分つた。
「しまつた!戟がない」
さしもの典韋もうろたへた。
しかも暑いので、半裸体で寝てゐたので、具足を着けるひまもなかつた。
——が、その儘(まゝ)彼は外へ躍りだした。
「典韋だ!悪来だ!」
敵の歩卒は、逃げ出した。
その一人の腰刀を奪ひ、典韋は、滅茶苦茶に斬りこんだ。
寨の門の一つは、彼ひとりの手で奪回した。しかし又忽ち、長槍を持つた騎兵の一群が、歩卒に代つて突進して来た。
典韋は、騎士歩卒など、二十餘人の敵を斬つた。刀が折れると、槍を奪ひ、槍がサゝラのやうになると、それも捨てゝ左右の手に敵兵二人をひツ提(さ)げ、縦横にふり廻して暴れまはつた。
かうなると、敵も敢(あへ)て近づかなかつた。遠巻(とほまき)にして、矢を射はじめた。半裸体の典韋に矢は仮借なく注ぎかけた。
それでも典韋は、寨門を死守して、仁王のごとく突つ立つてゐた。然(しか)し餘り動かないので恐々(こは/゛\)と近づいてみると、五体に毛矢(けや)を負つて、まるで毛虫のやうになつた典韋は、天を睨んで立つた儘(まゝ)、いつの間にか死んでゐた。
かゝる間に、曹操は、
「空(むな)しくこんな所で死すべからず——」
とばかり、馬の背にとび乗つて、一散に逃げ出した。
よほど機敏に逃げたとみえ、敵も味方も知らなかつた。たゞ甥の曹安民たゞ一人だけが裸足で後から従(つ)いて行つた。
しかし、曹操逃げたり!とは直ぐ知れ渡つて、敵の騎馬隊は、彼を追ひまくした。追ひかけながら、ぴゆん/\と矢を放つた。
曹操の乗つてゐる馬には三本の矢が立つた。曹操の左の肘にも、一(イツ)箭(セン)突き通つた。
徒歩(かち)の安民は、逃げきれず、大勢の敵の手にかゝつて、なぶり殺しに討たれてしまふ。
曹操は、傷負(ておひ)の馬に鞭うちながら、〔ざんぶ〕と、淯水の河波へ躍りこんだが、彼方の岸へあがらうとした途端に、又一矢、闇を切つて来た鏃(やじり)に、馬の眼を射ぬかれて、だうと、地を打つて倒れてしまつた。
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次回 → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(四)(2024年9月17日(火)18時配信)