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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(一)
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本尊様と狛犬(こまいぬ)のやうに、常に、曹操のゐる室外に立つて、爛々と眼を光らしてゐる忠実なる護衛者の典韋は、
「あゝ、眠たい」
閑なので、欠伸(あくび)をかみころしながら、司令部たる中軍の外に舞ふ白い蝶を見てゐた。
「もう、夏が近いのに」
と、無聊(ブレウ)に倦(う)んだ顔つきして、同じ所を、十歩あるいては十歩もどり、今度の遠征ではまだ一度も血にぬらさない手の戟を、あはれむ如くながめてゐた。
かつて、曹操が袁州(エンシウ)(ママ)から起つに当つて、四方の勇士を募つた折、檄(ゲキ)に応じて臣となつた典韋は、その折の採用試験に、怪力を示して、曹操の口から、
(そちは、殷の紂王に従つてゐた悪来にも劣らぬ者だ)
と云はれ、以来、典韋と呼ばれたり、悪来とも呼ばれたりして来た彼である。
だが、その悪来典韋も、狛犬がはりに、戟を持つて、この長日を立つてゐるのは、いかにも気(け)懶(だる)さうであつた。
「こらつ、何処へゆく」
ふと、ひとりの兵が、閣の廊を窺(うかゞ)つて、近づいて来たので、典韋はさつそく、退屈しのぎに、呶(ど)鳴(な)りつけた。
兵は、膝をついて、彼を拝しながら、手紙を出した。
「あなたが、典韋様ですか」
「なんだ、おれに用か」
「はい。張繡様からのお使(つかひ)です」
「なる程、おれへ宛てた書状だが、はて、何の用だらう」
披(ひら)いてみると、長い御陣中の無聊をおなぐさめ申したく、粗樽(ソソン)をまうけてお待ちしてゐるから明夕(みようゆう)城中までお越し給はりたい——といふ招待状であつた。
「……久しく美酒も飲まん」
典韋は、心のなかで呟いた。翌日は、昼のうちだけ非番だし、行かうと決めて、
「よろしくお伝へしてくれ」
と、約束して使(つかひ)の兵を帰した。
次の日、まだ日の暮れないうちから出向いて、二更の頃まで、典韋は城中で飲みつゞけた。そして殆(ほとん)ど、歩くのも覚(おぼ)つかない程、泥酔して城外へもどつて来た。
「主人のいひつけですから、私が中軍までお送りします。わたくしの肩におつかまり下さい」
一人の兵が、介抱しながら、親切に体を扶(たす)けてくれる。見るときのふ手紙を持つて使(つかひ)に来た兵である。
「おや、おまへか」
「ずゐぶん御機嫌ですな」
「何しろ一斗は飲んだからな。どうだ、この腹は。あはゝゝ、腹中みな酒だよ」
「もつと飲めますか」
「もう飲めん。……おや、おれは随分、大漢(おほをとこ)のはうだが、貴様も大きいな。背が殆(ほとん)ど同じぐらゐだ」
「あぶなうございます。そんなに私の首に捲(ま)きつくと、私も歩けません」
「貴様の顔は、凄いな。髯も髯(ママ)の毛も、赤いぢやないか」
「さう顔を撫でてはいけません」
「なんだ、鬼みたいな面(つら)をしながら」
「もうそこが閣ですよ」
「何、もう中軍か」
さすがに、曹操の室の近くまで来ると、典韋は、〔ぴた〕としてしまつたが、まだ交代の時刻まで間があつたので、自分の部屋へはいり込むなり前後不覚に眠つてしまつた。
「お風邪をひくといけませんよ。……ではこれでお暇(いとま)いたしますよ」
送つて来た兵は、典韋の体をゆり動かしたが、典韋の鼾声(いびきごゑ)は高くなるばかりであつた。
「……左様なら」
赤毛赤髯の兵卒は、後ずさりに、出て行つた。その手には、典韋の戟を、いつのまにか奪(と)りあげて持つてゐた。
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次回 → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(三)(2024年9月16日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。