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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 胡弓夫人(四)
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今朝、賈詡のところへ、そつと告げ口に来た部下があつた。
「軍師。お聞きですか」
「曹操のことだらう」
「さうです」
「急に、閣を引払つて、城外の寨(とりで)へ移つたさうだな」
「その事ではありません」
「では、何事か」
「申すも〔ちと〕、憚(はゞか)りますが」
と、小声を寄せて、夫人鄒(スウ)氏と曹操との関係をはなした。
賈詡は、その後で主君の張繡の坐所へ出向いた。
張繡も、いやな顔をして、鬱(ふさ)いでゐたが、賈詡の顔を見ると、いきなり鬱憤を吐きだすやうに云つた。
「怪(け)しからん!実に不品行なやつだ。——いかに驕(おご)り誇つてゐるか知らんが、おれを辱しめるにも程がある。おれはもう曹操などに屈してはゐられないぞ」
「御もつともです」
賈詡は、張繡の怒つてゐる問題にはふれないで、そつと答へた。
「……が、かういふ事は、あまりお口にしない方がよいでせう。男女の事などといふものは論外ですからな」
「しかし、鄒氏も鄒氏だ……」
「まあ、胸をさすつておいで遊ばせ。その代りに、曹操へは、酬(むく)ふべきものを酬ふておやりになればよいでせう」
謀士賈詡は、何事か、侍臣を遠ざけて、密語してゐた。
すると次の日。
城外に当る曹操の中軍へ、張繡がさりげなく訪ねて来て、
「どうも困りました。私を意気地ない城主と見限つたものか、城中の秩序がこのところ弛(ゆる)んでゐるので、部下の兵が、勝手を振舞ひ他国へ逃散(タウサン)する兵も多くて弱つてをりますが」
と、愚痴をこぼした。
曹操は、彼の無智をあはれむやうに、打笑つて、
「そんな事を取締るのは君、造作もないぢやないか。城外四門へ監視隊を備へ、又、城の内外を、たえず督軍で見廻らせて、逃散の兵は、即座に、首を刎ねてしまへば、すぐ熄(や)んでしまふだらう」
「さうも考へましたが、降服した私が、自分の兵とはいへ、貴軍へ無断で、配備をうごかしては……とその辺を憚(はゞか)つてをるものですから」
「つまらん遠慮をするね。君のほうは君の手で、びし/\軍律を正してくれなければ、我軍としても困るよ」
張繡は、心のうちで、
「思ふつぼ」
と、歓んだが、さあらぬ顔して、城中へ帰つて来ると、すぐその由を、賈詡に耳打(みゝうち)した。
賈詡はうなづいて、
「では、胡車児(コシヤジ)をこれへ、お呼び下さい。私からいひつけませう」
と、云つた。
城中第一の勇猛といはれる胡車児はやがて呼ばれて来た。毛髪は赤く、鷲(わし)のやうな男である。力(ちから)能(よ)く五百斤を負ひ、一日に七百里(支那里)を馳けるといふ異人だつた。
「胡車児。おまへは、曹操についてゐる典韋と戦つて、勝てる自信があるか」
賈詡が問ふと、胡車児は、頗(すこぶ)るあわてた顔いろで、顔を横にふつた。
「世の中に誰も恐ろしい奴はありませんが、あいつには勝てさうもありません」
「でも、どうしても、典韋を除いてしまはなければ曹操は討てない」
「それなら、策があります。典韋は酒が好きですから、事に依せて、彼を酔ひつぶし、彼を介抱する振(ふり)をして、曹操の中軍へ、てまへが紛れこんで行きます」
「それだ!わしも思ひついてゐたのは。——典韋を酔ひつぶして、彼の戟さへ奪つておけば、おまえにも彼を打殺すことができるだらう」
「それなら、造作もありません」
胡車児は、大きな〔やへ〕歯を剝(む)き出して笑つた。
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次回 → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(二)(2024年9月14日(土)18時配信)