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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 胡弓夫人(三)
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夫人は、肩をすくめて貌容(かんばせ)を紅(くれなゐ)の光に染めた。
曹操は、その熱い耳へ、唇(くち)をよせて、
「貴方へ恩を売るわけぢやないが、余の胸一つで張繡一族を亡ぼすも生かすも自由だといふことは、お分りだらう。……さすれば、余が何のために、そんな寛大な処置をとつたか。……夫人」
幅広い胸のなかに、彼女は、息づまるほど抱きしめられてゐた。がくりと、人形のやうな細い頸(うなじ)を折つて仰向いた夫人は、曹操の火のやうな眸に会つて、麻酔にかゝつたやうにひきつけられてゐた。
「余の熱情を、御身は何と思ふ。……淫らと思ふか」
「い……いゝえ」
「うれしいと思ふか」
「…………」
「答へないのは、お厭(いと)ひか。嫌といふ意味か」
「でも」
「……でも?」
「わたくしは」
「……わたくしは?」
「…………」
たゝみかけられて、夫人の鄒氏はわな/\顫(ふる)へた。蠟涙(ラフルヰ)のやうなものが頰を白く流れる。——曹操は、唇をかみ、つよい眸をその面(おもて)に焦(や)きつけるばかりに屹(きつ)とすゑて、
「はつきり言へつ!この曹操の意に従ふのは、いやなのか、いゝのか」
難攻の城を攻めるにも急激な彼は、恋愛にも持前(もちまへ)の短気をあらはして武人らしく云ひ放つた。
すこし面倒くさくなつたのである。
「おいつ、返辞をせんかつ」
揺すぶられた花は、露をふりこぼして俯(うつ)向(む)いた。そして唇(くち)のうちで、何か微(かす)かに答へた。
嫌とも、はいとも、曹操の耳には聞えてゐない。しかし曹操はその実、彼女の返辞などを気にしてゐるのではない。
「何を泣く、涙を拭け」
云ひながら、彼は室内を大股に濶歩(かつぽ)した。(※)そして
「典韋!」
と、寝室の扉口(とぐち)に立つて呼んだ。
典韋は、石像のやうに、戟(ほこ)を持つて、薄暗いところに立つてゐた。彼は二六時中曹操の身辺を護衛してゐる衛府の一人であつた。
「はつ」
典韋は答へながら、暗やみの中で、ニツと白い歯を剝(む)いた。——彼奴(あいつ)見てをつたなと、曹操もをかしくなつたのであらう、にんやり笑ひ返しながら、
「居るか」
と、云つた。
「居ります」
「寝(やす)むぞ」
「はつ。御ゆるりと」
曹操は内から扉(と)をしめた。
春は熟れてゐる。麦の穂も伸びる盛りである。夜が明けると、曹操は雲雀(ひばり)の高啼く窓をひらいて、口の中で何事かつぶやいた。
鄒(チウ)氏は甘へた眼をして、
「わたし、心配でなりません」
「なぜ」
「張繡が、変に思ひませう。城中の人々にも陰口をさゝやかれるのが辛(つら)うございます」
「そんな心配か。やはり女は気が弱いな。よろしい。——明日は城を出て、寨(とりで)のはうへ、御身と共に居を移さう。……それならよからう」
両手で鄒氏の顔を押へ、ゆうべの唇(くち)を見つめながら云つた。
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次回 → 淯水(いくすい)は紅(あか)し(一)(2024年9月13日(金)18時配信)
[補註]今回掲載分の中、(※)以降の部分は初版単行本では削除されています。